第一編第3章「敬虔な畏れを経験せよ」

 「わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め。』」―黙示録14:6,7
  

敬虔な畏れが要求される


 第一天使は「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。・・・天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」(黙示録14:7)と大声で語っている。その理由は、「神のさばきの時がきたからである。」再び強調するが、この天使の使命は経験が要求される使命である。
 「第三天使のメッセージを受け入れた人々の多くは、前の二つのメッセージの経験を持っていなかった。サタンは、これを知っていて、その邪悪な目を光らせて、彼らを陥れようとした。…それらを理解して信じた人々は、サタンの多くの欺瞞に押し流されないように守られるのである。」―初代文集p.417
 ある人々は現代の人々に対しておそれのない世代だと言う。良い意味として解釈できるかもしれないが、このように語られる本当の理由は、この最後の時代の人々は生意気で傍若無人、そして何が礼儀なのかを知らないと思われているからである。目上の人を尊敬する時代は過ぎ、礼儀と道徳心は地に落ちてその価値を知ることができず、家庭では父の権威までが失われてしまったこの世代は、畏れが何であるかを知らない世代のようである。「しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、 裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、 信心深い様子をしながらその実を捨てる者…」(第二テモテ3:1-5)。このような人々は神に対する畏れ、また罪を犯すことに対する恐れが無い。
 今日世の中がこのような状態になったのは神を畏れず、塩の味を失ってしまったクリスチャンに責任がないわけではない。神を畏れると言う言葉の意味は怖がってぶるぶると震えることであるなどと誤解してはならない。この意味は神の御名にふさわしい栄光を帰すこと、尊敬と清い畏れをもつことを意味している。
 第三天使の使命者は神を畏れても、世をおそれない信仰の人でなければならない。なぜならこの世が存在してから今まで人間が聞いたことのない、最もおそろしく厳粛な使命を伝えなければならならず、最後の大争闘において獣とその像と戦わなければならない強い信仰が要求されるからである。この信仰は命が危険にさらされても律法を守る神を畏れる者だけが持つことができる信仰である。
 「イエスは、聖所における奉仕を終わり、至聖所にはいって、神の律法を納めた箱の前に立たれたときに、世界に対する第三の使命をたずさえたもうひとりの力強い天使を、お送りになった。天使の手には、羊皮紙が渡された。そして、彼は、力と威光とをもって地に下り、これまで人類に伝えられたことのない、恐怖すべき威嚇をもった恐るべき警告を発した。このメッセージは、神の民の前にある試みと苦悩の時を彼らに示して、彼らに用心させるためのものであった。『彼らは、獣とその像と激しく戦わなければならない。彼らが永遠の生命を得る唯一の希望は、堅く立つことである。彼らは、その生命が危機にひんしても、真理に固く立たなければならない』と天使は言った。」―初代文集p.414
 「第三天使の使命を証する厳粛な働きに従事する者は確信を持って働き、神の霊と能力でおそれずに真理を伝え、真理が前進できるようにしなければならない。彼らは真理の標準を高め、人々にその標準に到達するようにと勧めなければならない。暗闇と罪悪の状態に置かれている人々にあわせるために真理の標準があまりにもたびたび低くなった。・・・キリストの再臨のために民を目覚めさせ準備させてくれる厳粛でおそろしい使命を伝えるように神から委託された僕は明らかな証をしなければならない。私たちの真理はまるで天が地より高いように、名前だけの公言者が持っている真理よりずっと厳粛なものである。」―教会への証1巻p.248,249


信仰の不足ではない


 神に対する畏れのない説教者たちは名目的な信者からの好意を得るために彼らの標準に合う説教をして偽の平安を与えている。説教者たちは人気を失うことを恐れるあまり聖書にある明らかな真理を語るよりも、彼らの耳を楽しませる言葉を伝える。なぜなら彼らの心には神に対する畏れが欠けているからである。彼らはおそれおののいて自分の救を達成しようとする謙遜な信者を信仰が足りない者と考える。なぜならこのような説教者たちは神の愛を体験しないために起こる不安の恐れと、真の畏れを区別できないからである。真の自由と平安は第一天使が伝えた真理によって罪からの自由を経験した人のみが得ることができるものである。第一、第二、第三天使が伝える使命は真におそろしく驚くべき使命であるが、この使命によって神を畏れるようになる者は決して多くはいない。
 「主は、ご自分の民が彼を信頼し、彼の愛に安んじていることを望まれる。だがそれは、我々が何も畏れず、気にかけないということではない。ある人々は、もし人が神の裁きに対する健全な畏れを持っているなら、それは彼には信仰がない証拠であると思うようであるが、そうではない。」―RH1890年10月21日
 「牧師たちは、世俗的信仰者に迎合して、耳あたりのよいことを語る。彼らは、イエスのことや聖書の鋭い真理を説教しようとしない。もしそうすれば、これらの世俗的信仰者たちは、教会に残っていないであろう。しかし、彼らの多くは金持ちであるために、サタンや彼の天使たちと同様に全く不適当な者であるにもかかわらず、教会に留めておかなければならない。これは、サタンが望むところのことである。イエスの宗教は、一般に受けがよいものにされ、世間的に尊敬を受けるものにされている。 信仰を告白する者は、世の中から一層尊敬されると人々は言い聞かされている。このような教えは、キリストの教えとは、非常にかけ離れたものである。キリストの教えと世の中とは、相容れないものであった。彼に従うものは、世を捨てなければならなかったのである。こうした当たりのいいことは、サタンと彼の天使たちにその源を発している。彼らが計画をたてて、名目だけの信仰者たちがそれを実行するのである。耳あたりのよい作り話が語られて、人々は、それをすぐに受け入れた。そして、偽善者と公然たる罪人たちが教会に加わった。もし真理が、その純粋なままで説教されたならば、すぐにこの種の人々を追放してしまったのであろう。しかし、キリストの信者であると自称する者たちとこの世との間には、なんの違いもなかった。」―初代文集p.376,377
 「わたしは、第一、第二、第三の天使による三段階の使命を示された。わたしにつきそっていた天使は言った。『この使命をすこしでも変える者はわざわいだ。この使命を本当に理解することが非常に大切だ。魂の運命は、この使命をどう受け入れるかにかかっている。』」―初代文集p.420


おそろしく厳粛な使命


 主が再び来られると言う使命は実におそろしく驚くべき使命であり、主にお会いするということは喜びに先立って実に厳粛でおそろしいことである。再び来られるキリストに会うとはどのような経験なのだろうか?キリストは以前のような姿ではなく栄光の姿で来られるのである。
 1844年当時、「まじめな信者たちは、あたかも死の床にあって、あと数時間で地上に別れを告げるかのように、心の思いと感情を注意深く吟味した 。」―各時代の大争闘下巻p.72
 「自分たちの背信を認めて、悔い改めの激しい涙と、魂の深刻な苦悩とによって、神の前に謙虚になった。そして、神の霊が彼らの上に宿って、彼らは、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである』という叫びをあげるのに加わった。」―初代文集p.384,385
 彼らは再臨という永遠の運命が決定される厳粛でおそろしい事件を目前にして、自らの心を深く探る時間を持ったのであった。
再臨信徒よ!今日の私たちの経験はどうであろうか?私たちはどれほど厳粛に今日と言う日を生きているのであろうか?その当時の再臨信徒たちはイエスが来られる日を知っていたので、罪を悔い改め、心を深く探って告白することができたのだと反論するかもしれない。もちろんそうである。イエスが再臨なさる日時を知ることができたら、それは実に厳粛なことであり、私たちを準備させる力になるのは事実である。しかしみ言葉には…


時期よりも強い使命


 「第三天使の使命は、時の力以上に強力なものである。この使命は、それ自体の基盤の上に立つことができるもので、時によって強化される必要がないことを、また、きびしく、すみやかになしとげられることを、わたしは見た。 」―初代文集p.156
 今日私たちはどれくらい厳粛な心で神に栄光を帰しながら生きているであろうか?イエスが来られる日時を知ることができないので、私たちは彼らのように厳粛で畏れを感じることができないのであろうか?しかし第三天使の使命はイエスが来られる日時を知ることよりももっと厳粛で力のある使命であるという事実を知ることは私たちの特権であり義務である。なぜ私たちは厳粛さと、畏れの中で生きなければならないのだろうか?それは神に栄光を帰すためである。第一天使は大声で「神をおそれ、神に栄光を帰せよ」と叫んでいる。私たちが神に対して当然はらうべき尊敬と畏れがないなら、神に栄光を帰すことができないのである。
 「第一天使は、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ、』神を天地の創造主として礼拝せよと、人々に呼びかけている。 」―各時代の大争闘下巻p.155
 「『神のさばきの時がきた』という告知は、人類の救いのためのキリストの務めの最後の働きを指している。…人々に審判に立つ準備をさせるために、メッセージは、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。』『天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め』と彼らに命じている。」―各時代の大争闘下巻p.154


天の法廷に係留中の事件


 「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。」―黙示録14:7
 再臨信徒よ!今、天で私たちの審判が行われていることを知っているであろうか?あなたは裁判に参加してみた経験があるだろうか?この世の裁判でさえその雰囲気は非常に厳粛であり、被告人はもちろん全ての傍聴人までも圧倒してしまうようなものである。検察官の論告と弁護士の弁護、裁判長の宣告など被告人にはどの一言も聞き逃すことのできない厳粛でおそろしいものである。そして法廷に立つ被告人は一つの言葉と行動、表情、服装、顔つきなどいずれも軽率にできないのは、それらが被告人の運命を決定付ける最後の宣告に影響を及ぼすものだからである。もし被告人が濃い化粧に流行の派手な服装で裁判官の前に立ち、不遜で冗談の混じった話し方で答えるなら、その宣告に哀れみを期待することはできないであろう。
 1844年から天の法廷の被告人の席に私たちの名前が書かれた訴訟事件が係留中である事を再臨信徒たちは忘れてはならない。正義によって私たちの生涯は調査され、一つの言葉と行動でさえ、まるでこの世にたった一人しかないように調査されていると言うことを信じるなら、皆おそれおののいて救を達成するようになるはずである。第一天使はこの出来事の厳粛さについて私たちに大声で叫んでいるのである。


審判は行われている


 「審判が指定されていた時、すなわち、2300日の終わる1844年に、調査と罪の除去の働きが始まった。これまでにキリストの名をとなえたことのある者はすべて、この厳密な審査を受けなければならない。生きている者も死んだ者もともに『そのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって』裁かれる。」―各時代の大争闘下巻p.219
 「救い主の仲保の恵みにあずかりたいと思うものは、神を畏れつつ聖潔を完成していくというその義務を、何ものにも妨げられてはならない。貴重な時間は、快楽や虚飾、または利益の追求に費やすのではなくて、真理の言葉を熱心に、祈りとともに研究するために用いなければならない。聖所と調査審判の問題は、神の民によってはっきりと理解されねばならない。すべての者は、自分たちの大いなる大祭司キリストの立場と働きについて、自分で知っている必要がある。そうしなければ、この時代にあって必要な信仰を働かせることも、神が彼らのために計画しておられる立場を占めることもできなくなる。ひとりびとりの魂は、救われるか、滅びるか、そのどちらかなのである。各自は、今、神に裁かれようとしている。各自は大いなる審判者と顔を合わせなければならない。とするならば、審判が始まり、かずかずの書物が開かれる厳粛な時のことを、ダニエルとともに、定められた日の終わりに立って、自分たちの分を受けねばならない厳粛な時のことを、たびたび瞑想することは、すべての者にとってどんなにか重要なことであろう。」―各時代の大争闘下巻p.221,222
 「1844年に私たちの大祭司は天の至聖所に入られ、調査審判の働きを始められました。死んだ義人の裁きが神の前に取り上げられています。その働きが終わると、生きている者に審判が宣告されます。この厳粛な時は、本当にかけがえのない重要な時です。私たち一人ひとりが、天の法廷における決定を待っているのです。私たち一人ひとりが、この世で行ったことに従って裁かれます。」―セレクテッド・メッセージ1巻p.162
 「大裁判が開かれていて、それはしばらく前から続いている。主は今、聖所とそこで礼拝している人々を測りなさいと言われる。あなたが仕事で道を歩いている時、神があなたを測っておられることを覚えなさい。あなたが家事に従事している時も、誰かと会話している時にも、神はあなたを測っておられるのである。・・・
最後の日に立つことができる者を調べるために、聖所とそこで礼拝している人々を測る継続的な働きがここにある。固く立つ人々は、我々の主と救い主イエス・キリストの王国に確実に入るのである。我々が働く時、我々の精神を見守っているお方がおられることを覚えなさい。」―SDAバイブル・コメンタリー7巻p.972(スタディー・バイブル黙示録11:1)


天の裁判所


 「わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりもののない羊の毛のようであった。そのみ座は火の炎であり、その車輪は燃える火であった。彼の前から、ひと筋の火の流れが出てきた。彼に仕える者は千々、彼の前にはべる者は万々、審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた。」―ダニエル7:9,10
 「審判において、記録の書が開かれるときに、イエスを信じたすべての人の生涯が神の前で調べられる。われわれの助け主であられるイエスは、この地上に最初に生存した人々から始めて、各時代の人々のためにとりなし、現在生きている人々で終わられる。すべての名があげられ、すべての人の事情が詳しく調査される。受け入れられる名もあれば、拒まれる名もある。もしだれかが、罪を悔い改めず、許されないまま、記録の書に残しておくならば、彼らの名は、いのちの書から消されて、彼らの善行の記録も神の覚えの書から消される。」―各時代の大争闘下巻p.215
 「これは、なんと厳粛な思想であろう。毎日毎日が永遠の中に過ぎ去り、その日のことが天の書に記録される。一度口に出した言葉、一度行なった行為は、二度と取り返すことができない。天使は、善悪ともに記録しているのである。この世のどんなに偉大な征服者でも、ただ一日の記録さえ取り消すことはできない。われわれの行動、言葉、そして極秘の動機でさえも、みな、われわれの運命を禍福いずれかに決定する重要な役割を持っている。たとえわれわれが忘れていても、それらは、義とするかそれとも罪に定めるかの、証言を立てるのである。
 芸術家のよく磨かれた金属板に、人間の顔かたちが正確に反映されるように、人の品性も天の書物に、そのまま描写されている。にもかかわらず人々は、天の存在者たちに見られねばならないその記録について、憂慮することのなんと少ないことであろう。もし、見える世界と見えない世界とをへだてている幕が取り除かれて、人々が、審判において再び直面しなければならないすべての言行を、天使たちが記録しているのを見ることができるならば、日ごとに語られるどれだけ多くの言葉が、語られずにすみ、どれだけ多くの行為が、なされずにすむことであろう。」―各時代の大争闘下巻p.219,220
 「贖罪の働きが終結しようとするときの光景は、実に厳粛である。そこには、実に重大な意義が含まれている。審判は今、天の聖所において進行中である。長年にわたって、この働きは続けられてきた。間もなく―その時がいつかはだれも知らないが―生きている人々の番になる。神のおそるべき御前で、われわれの生涯が調査されねばならない。・・・調査審判の働きが終わるとき、すべての人の運命は、生か死かに決定されてしまっている。」―各時代の大争闘下巻p.224,225


徹底的な悔い改めと変化が要求される


 「愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか。」―第二コリント7:1
 「天使たちを支配し、隠れている思いと欲望と気質に純潔性を要求し、『世々かぎりなく』(詩篇111:8)存在するこの律法によって、全世界に速かに近づいている神の日に審判を受けるようになるであろう。」―セレクテッド・メッセージ1巻p.220
 「思いにおいてさえ、神のご意志に服従し、感情は理性と宗教の支配下に入れなければならない。わたしたちの想像力は、何の抑制や規律の努めもなく、暴走して行くままに任されるために与えられているのではない。もし、考えが悪ければ、感情も悪いものとなる。考えと感情とは、一緒になって道徳的品性を形作る。」―天国で6月6日
 「私たちの品性の短所と不完全をもって天国に入ることはできないので、今恵みの時期を通して天国にふさわしくならなければならない。」―レビュー・アンド・ヘラルド1892年2月15日
 「神は被造物に神の意志と一致する事を求められる。品性の不完全さは、罪である。そして罪は、律法の違反である。品性の、あらゆる義の属性は、完全な、全体に調和のとれたものとして、神の中に宿っている。キリストを個人的救い主として受け入れるすべての者は、これらの特性を持つ特権がある。これが神聖の科学である。」―彼を知るために5月5日
 「だれも全能になることはできないが、自分を肉体と精神の汚れから清め、主を恐れつつ、神聖を完成することはできる。神は全ての魂が純潔で神聖になることを望まれる。私たちは生まれつきの悪い傾向がある。これはだれも持ち歩く必要のない自我の一部分である。品性の本性的な特徴によって利己心を育てることは人類の弱さである。しかし全ての利己心をなくし自我を釘付けにしないならば、私たちは決して神が神聖であられるように神聖になることはできない。」―信仰によって生きるp.140
 「(イエスが再臨なさる時)彼は私たちの罪を清め、私たちの品性の欠点を取り除き、私たちの性質と性格の弱点を直しに来られない。このことが私たちになされなければならないとしたら、その前(再臨の前)になされなければならない。主が来られると聖なる者はさらに聖なる者となるであろう。彼らの体と精神を清潔と聖化と尊さで保存した者はその時不滅の仕上げをされるであろう。しかし不義で、聖化されず、汚れた者はそのまま残るであろう。その時に欠点を取り除き清い品性を与えられることはないであろう。精錬される方が精錬の働きを再び行われて罪と腐敗を取り除かれることはされない。この全てのことは恵みの期間の間になされなければならない。私たちにこの働きがなされなければならない時間は今である。」―教会への証2巻p.355
 「その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。彼は金をふきわける者の火のようであり、布さらしの灰汁のようである。彼は銀をふきわけて清める者のように座して、レビの子孫を清め、金銀のように彼らを清める。そして彼らは義をもって、ささげ物を主にささげる。」―マラキ3:2,3
 「あなたはまだ肉的であり、堕落しており、罪の品性を持っていながら第三天使の使命を伝えることができると考えるのだろうか?・・・毎日あなたの心の中の罪を空にせず、真理を通して聖化されないならばあなたは神の使命に関係しないほうがましである。」―レビュー・アンド・ヘラルド1892年3月29日


神に栄光を帰しなさい


 「大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。』」―黙示録14:7
 第一天使は畏れをもって神に栄光を帰しなさいと叫んでいる。再臨信徒たちよ、私たちはいかにして神に栄光を帰すことができるのであろうか?何をもって神のみ前に歩むのなら彼が喜ばれるのであろうか?何をしたら神の栄光になるのであろうか?そして神が喜ばれる栄光とは何なのだろうか?「『わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもってそのみ前に行くべきか。主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか。』人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」(ミカ6:6〜8)。神が私たちに要求されるのは公義と哀れみを愛し、謙遜に神と共に義を行うことである。自らのとがと罪を悲しんで十字架の下にひざまずく時、神は喜ばれる。神の品性の写しである律法を愛しその原則によって義を行う時、神に栄光を帰すようになる。私たちが神に栄光を帰すことができるのはキリストのような品性のみである。
 「キリストの栄光はその律法の中に表されている。その律法は彼の品性の写しである。」―SDAバイブル・コメンタリー6巻p.1096
 「神に栄光を帰すということは私たちの中にある神の品性を表すことである。このような方法で彼を世に知らせるのである。」―SDAバイブル・コメンタリー7巻p.979


品性は生活に表されなければならない


 「この品性は、キリストの生涯に表された。主は、ご自身の模範によって、肉にある罪をとがめるために、罪深い肉の姿を、ご自身にお取りになった。絶えず主は、神の品性を見つめ、絶えずこの品性を世に表された。キリストは御自分に続く者が、生活にこれと同じ品性をあらわす事を望まれる。」―彼を知るために5月5日
 「聖霊は私たちの生活において義を表すように教える。この世で私たちがすることのできる最も大きな働きはキリストの品性を生活に表すことによって神に栄光を帰すことである。神は自我を捨てた者だけを完全にされるであろう。」―SDAバイブル・コメンタリー6巻p.1109
 「私たちの品性をキリストの姿に変化させられると言われた方は聖霊であられる。そしてその働きがなされるまで私たちは主の栄光を鏡のように反射するであろう。」―SDAバイブル・コメンタリー6巻p.1097
 「神のみかたちが人間のうちに再現されるのである。神の栄え、キリストの栄光は、神の民の品性の完成に含まれている。」―各時代の希望下巻p.157
 「彼らが神のかたちに似たものとされ、み霊によって支配されるときはじめて、神は信仰を告白する者たちによってあがめられることができる。そして後、救い主の証人として彼らは、彼らのためになされた神の恵みを知らせることができる。」―患難から栄光へ下巻p.262,263
 私たちが理解すべきことは、キリストの品性を私たちの生涯に表し、神の御品性を世に証すること、この事よりも神に栄光を帰す事のできる道はないということである。
 今日サタンは神の御品性の栄光が表されないようにするためにあらゆる偽の福音と偽の教理によって人々を惑わしている。敬虔の形はあるが敬虔の力のない福音が伝えられている。私たちに力と能力を与えることのできる力ある教理(真理)は忘れられ、弱い人間のレベルに合わせて標準を低くした聞きやすい使命だけが伝えられている。
 約束されたみ言の中には創造の力が臨在しているが、これを体験することができず、信仰とは望んでいる事がらの実相であるはずなのに標準はとても低い。
愛する再臨信徒よ!第一天使の力ある使命を信仰によって体験してみようではないか?信仰は望んでいる事がらの実相である。今も力ある天使は中空を飛んでいる。今はまだ恵みの時、救いの日である。アーメン。

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