第二編第1章「第二天使の使命を経験せよ」

第1章「三ヵ月後にイエスに会うという使命」


「また、ほかの第二の御使が、続いてきて言った、『倒れた、大いなるバビロンは倒れた。その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた者。』」―黙示録14:8

 
宣告されたバビロン


今回は第二天使の使命を中心に現代の真理と教訓を学んでいく。
第二天使は第一天使の後に続いてきて「バビロンは倒れた」と宣言している。第二天使が倒れたと宣言したバビロンとはいったい何を指しているのだろう?ダニエルの時代にネブカデネザル王が統治していたバビロンでないのは確かである。なぜならその都市はすでに滅び、歴史の舞台から消えているからである。ではこのバビロンとはどこを指しているのであろうか?このような質問は再臨信徒にとってはとても簡単な質問であろう。安息日学校の子供たちでも「バビロンはローマ・カトリック教会を象徴する」と答えることができるかもしれない。では、もう一つの質問をしてみよう。なぜバビロンはローマ・カトリック教会を象徴するのか?きっとこの質問は子供が答えるには多少難しいものであろう。この質問には大人が答えなければならない。なぜバビロンはローマ・カトリック教会を象徴するのだろうか?
知ってはいても、説明するのはそう簡単ではないかもしれない。簡単に一言で答えるには「バベル」が何を意味しているかを考えてみる必要がある。「バベル」と言う言葉の意味は「混乱」である。聖書で使われているバビロンと言う言葉は背教的な宗教を示すのに使われている。黙示録17章の「淫婦」はバビロンを意味しているが、これは背教した教会を指している。逆に純潔な女は清い教会を象徴している。
ローマ教会は使徒パウロが心から愛した教会である。しかしその教会を私たちはローマ・カトリックすなわち大いなるバビロンと呼ぶ。どうして使徒パウロによって大きく成長し愛された教会をそのように呼ぶことができるのだろうか?
「聖書では、キリストとキリストの教会との間の神聖で永続的な関係を、結婚の契りで表わしている。…
教会がキリストに不忠実であって、キリストに対する信頼と愛情を失い、世俗の事物に対する愛を心に抱くことは、結婚の誓いを破ることにたとえられている。」―各時代の大争闘下巻p.82
妻が夫を捨ててほかの男を愛するなら、その妻は淫婦になるのである。クリスチャンの清い妻である教会も同様である。教会のために命を捨てられたキリストの愛を無視して世を愛するのなら教会は淫婦になるのである。
「不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。」―ヤコブ4:4
教会が世を愛し世俗化するならば、神はその教会を淫婦と呼ばれるのである。
ユダヤの教会が淫婦になったのは、主を離れ、異邦人と同盟を結んだためであったが、ローマも同様に、俗権の支持を求めて堕落し、同様の非難を受けている。」―各時代の大争闘下巻p.83,84
「ああ、『神への敵対』である世を友とする精神が、今日、キリストの弟子であると称する人々の間に、なんと恐ろしいばかりに、広く行きわたっていることであろう。キリスト教国の一般の教会は、謙遜、自己犠牲、単純、敬虔といった聖書の標準から、なんと遠くかけ離れてしまったことであろう。」―各時代の大争闘下巻p.87


新しいバビロン


使徒パウロによって建てられたローマ教会は、世の権力を得るために世俗と妥協し、自ら堕落の道を進んで行ったために淫婦の母となったのである。神の教会が神に敵対する大いなるバビロンとして変わった。だからバビロンと言う名は純潔であった教会が堕落し背教したために付けられるものである。
では1844年から第二天使はバビロンが倒れたと叫んでいるが、これはどの教会を指しているのだろうか?堕落したローマ・カトリック教会なのだろうか?預言者はこのように言っている。
「バビロンが倒れたことを宣言する黙示録一四章のメッセージは、かつては純潔であったが腐敗するに至った宗教団体に適用されねばならない。このメッセージは審判の警告に続くものであるから、最後の時代に発せられるものでなければならない。したがって、これは、ローマ・カトリック教会だけに当てはまるものではない。なぜならば、この教会は、幾世紀にわたって倒れた状態にあったからである。」―各時代の大争闘下巻p.84
1844年以前の純潔な教会とはどの教会なのであろうか?第二天使はマルティン・ルターをはじめとして歴史に出てくる多くの宗教改革者によって建てられたキリスト教会全体をバビロンと宣言し、倒れたと叫んでいる。
真実な神の僕によって建てられた神の忠実な町が淫婦となり倒れる運命になったのだろうか。これは実に悲しむべきことである。なぜそうなったのだろうか?
プロテスタント教会の多くは、ローマの例にならって『地の王たち』と不法な関係を結んでいる。国教会は俗権と提携することによって。また他の教派は、世俗の歓心を求めることによって。」―各時代の大争闘下巻p.85
「この大背教の原因は、いったい何であったのであろうか。教会はどのようにして、福音の単純さから離れたのであろうか。それはキリスト教が、異教徒に受け入れられやすいようにと、多神教の習慣に順応したからであった。…改宗者を得るために、キリスト教の高い標準は下げられ、その結果、『多神教が洪水のように教会内に流れ込み、その習慣、風俗、偶像を持ち込んだ。』」―各時代の大争闘下巻p.86
「礼拝者たちは、高価な流行の衣服をまとっている。人々を喜ばせ引きつける才能ある牧師に、高給が支払われる。彼の説教は、人々の罪にふれてはならず、上流社会の人々の耳に楽しい快いものでなければならない。こうして、上流社会の罪人たちが教会の名簿にのせられ、社交界の罪が信心深い装いのかげに隠されている。」―各時代の大争闘下巻p.88
神の教会がバビロンになるのはこのような道を通してである。最初からバビロン教会と言う看板を付けているのではない。この世のどんな教会であっても自らをバビロンと呼んだり、バビロンという看板をつけた教会はないということを考えるなら、いかにサタンの欺瞞が恐ろしいものであるかを知ることができる。しかし神は明らかにある教会を指してバビロンと言われ、彼らは倒れて神の激しい怒りのぶどう酒を飲むようになることを宣言しておられるのである。
教会の名前が美しいからとか、教会員の数が多く、素晴らしい奉仕をしているから自分たちの教会は絶対にバビロンになることはないとい考えるのは恐ろしいサタンの欺瞞である。あなたは自分の教会は真理を持っているのでバビロンにはならないと考えているのであろうか?また、自分たちの教会には預言者の証があるのでバビロンにはならないなどと自らを慰めてはいないだろうか?
信徒の数を増やすという理由で聖書の明確な使命を隠し、教会の標準を低くすることこそが堕落の道である。このようにすることによって忠実な信徒は減り、世を愛するなまぬるい信徒が増え、世俗がこのような魂たちと共に教会に入ってきて、教会を堕落させてしまうのである。このようなことによって教会はバビロンになる。
信徒の数を増やすという理由で信仰の標準を低くし、彼らのレベルに合うように柔らかい使命だけを講壇で語るなら、教会は必ず堕落する。世俗が教会に入ることが許されると、真理は無視され、その結果あらゆる誤りと偽りが教会の中に入ってきて様々な教理が乱立し、何が真理であるのかを信徒たちは理解できなくなってしまう。これこそが文字通り「混乱」であり、このような教会が「バビロン」になるのである。
1844年第一天使の使命を拒否した時、神の教会という名前を持ってはいたがキリストの愛を受け入れるよりも世を愛したプロテスタント教会がバビロンと宣告されたのである。


第一天使の経験を記憶しなさい


第一天使の使命を拒否した結果、教会がバビロンという宣告を受けたということを記憶しなければならない。第一天使の使命を教会が拒否すれば、教会はバビロンになり、同様に個人が拒否すれば、個人がバビロンとなる。
私たちは三回の機会を利用して第一天使の経験を研究してきた。1844年以後第一天使は第二と第三天使と共に今も中空を飛んでいるということを忘れてはならない。私たちはいつも第一天使の経験の中で生きなければならない。もし第一天使の使命を忘れるなら、バビロンになってしまう危険があるからである。
第一天使の経験を忘れてしまうということは非常に恐ろしいことである。なぜなら永遠の福音と敬虔な畏れがなくなるなら、堕落の道に入るようになるからである。そして第一天使の使命を経験しなければ第二天使の使命は受け入れられないのである。理論的な知識と歴史や預言を知ることだけでは十分ではないのである。
「第一天使の使命と第二天使の使命の経験がない人々は、それらを経験し、それに最後まで従っていった他の人々から、それらを受けなければならない。」―初代文集p.319
「第一天使の使命の光を拒んでそれに反対した人々は、第二天使の光を失い、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』というメッセージに伴う力と栄光の利益にあずかることができなかった。」―初代文集p.407


分離


1844年当時、民は三種類に明らかに分かれていたのだが、人の目には二つの民以外見ることができなかった。第一天使の使命を受け入れた人と拒否した人であった。しかし神の御目には第一天使の使命を受け入れた民の中に二種類の民が混じっているのをごらんになっていた。それは第一天使の使命を経験した民と経験しなかった民であった。それらの人々が神の炎のような目には、はっきりと識別されていたのであった。
神は真と偽りの混じった民をそのままにしておかれず、偽の民を真実な民からふるい落とされた。初代文集の中には「神は、彼らの預言の期間の計算の誤りを、手でおおわれた」(初代文集p.387)と記録されている。なぜ神が誤りをおおわれたのだろうか?再び預言者のみ言葉を見ると・・・
「神は、神の民が失望に出会うように計画された。定められた時は、経過した。そして、喜んで救い主を待望していた人々は、悲しみと失望に陥った。そして一方、イエスの来られるのを望んではいなかったが、恐怖心からメッセージを受け入れていた人々は、予期していた時に主が来られなかったことを喜んだ。彼らの告白は、心に何の影響も及ぼしておらず、生活を清めてもいなかった。時の経過は、このような人々の心を暴露するためのものであった。彼らは背き去り、救い主の出現を真に望んで悲しみと失望に陥っている人々を嘲笑した。神が、この試練の時に当たって、いったいだれがおじ恐れて離れ去って行くかを発見するために厳しいテストをお与えになって、神の民を試されたことは、神の知恵であったことを、わたしは見た。」―初代文集p.388
「イエスの来られるのを望んではいなかったが、恐怖心からメッセージを受け入れていた人々は、・・・生活を清めてもいなかった。」このような人々が第一天使の経験がない民であった。彼らは人間の目で見る限りは、まるで真実な民であるかのように見えた。しかし神は失望という試練を通して第一天使の経験がない者をふるい落とされたのである。これこそが神が真実な民とそうでない者を識別される知恵である。
再臨を待つ信徒たちよ!私たちはいったいどんな民であろうか?今、真実な民と共にいるとしてもいつかは神の知恵ある方法によって、ふるわれるかも知らないという事実はなんと厳粛なことなのであろうか?第一天使の経験がないならば、いつかは神の御手によって救いの隊列からふるわれてしまうのである。その時、ふるわれた人々は自分が神から離されたということを自覚できるのであろうか?
「彼らは、自分たちが、自分たちに対して与えられた神の勧告を拒み、サタンや彼の天使たちと一緒になって働き、天からのメッセージを実践する神の民を悩ましていることを、自覚しなかった。」―初代文集p.389
恐ろしいことは救われる民から分離したにもかかわらず、自分はそのことに全く気が付かないということである。これは我々にも起こりうることなのである。


ラオデキア教会の経験


「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。」―黙示録3:17,18
今日ラオデキア教会の大部分の人々がサタンによって自己欺瞞に陥っていると聖書は語っている。なぜなら自分が裸でみじめであわれむべき状態にいるのに、本人はそれを悟っていないからである。自分をなんの不自由もないと思っているのである。
第三天使の使命を信じるという大部分の信徒たちが第一天使の経験をしていないというのは事実である。であるからラオデキアの真の証人は第一天使の使命を経験せよと勧告しているのである。
「そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。…熱心になって悔い改めなさい。」―黙示録3:18,19
「第三天使のメッセージを受け入れた人々の多くは、前の二つのメッセージの経験を持っていなかった。サタンは、これを知っていて、その邪悪な目を光らせて、彼らを陥れようとした。」―初代文集p.417
「わたしは教会に、厳粛な訴えをしたい。それは教会名簿に名前の載っている人々の中で、地上の生涯を終わる備えができている人は20人に1人もなく、その他の人々は普通の罪人と全く同じに、世にあって、神もなく望みもないということである。」―世界総会回報1893年p.132
1893年頃に20人のうち1人も準備できていなかったのなら、今日はどれほどの人々が準備できているのであろうか。このことを考えてみると実に恐ろしいことである。神のみ言葉に照らして自分の信仰をテストせず、敬虔の形だけで満足していながら、徹底的な悔い改めと告白がないならば、また悔いのない悔い改めの経験がないならば、私たちも神の恵みから離されてしまうことであろう。
「諸教会が、第一天使の使命を受けることを拒んだときに、彼らは、天からの光を拒否し、神の恵みを失った。彼らは、自分たち自身の力に頼った。そして、彼らは、第一天使の使命に反対することによって、第二天使の使命の光を見ることができない状態に陥ってしまった。」―初代文集p.390,391


第二天使の使命を経験せよ


1844年3月22日、定められた時が過ぎると第一天使の使命を心から受け入れた民は大きな失望をし、嘲られた。彼らはこの失望の中にあっても再びみ言葉を研究し、ダニエル書に書かれた「2300の夕と朝」の預言を再び検討しが、2300の夕と朝の計算には少しも誤りがないという結論を得るようになった。
しかし彼らは2300の夕と朝の起算点となるエルサレム再建命令が春ではなく秋であったということを発見した。エルサレムの再建命令を下したアルタシャスタ王の勅令が春ではなく秋であったという歴史的事実を発見し、その年のユダヤ民族の大贖罪日は10月22日であるという驚くべき事実を知った。自分たちの誤りを悟った真実な民は、再び勇気を得て、1844年10月22日にキリストが来られるという確信を得るようになった。
キリストの再臨が春ではなく秋に変更されたのである。彼らはこのような結論に到達するまで何ヵ月もの間、聖書と祈りの格闘をした。そしてついに自分たちの誤りを知るようになり、失望はより大きな確信に変えられて、喜びが満ちるのを経験した。しかしキリストの再臨がわずか3ヶ月後に迫っているのを知った時、第一天使の使命を伝えた時とは違う厳粛な畏れと義務感に圧倒された。
彼らの霊的状態は今日のクリスチャンたちのように自分たちは信仰で救われたのだから、ただ喜び楽しもうというようなものではなかった。彼らが信じた福音はただ信じるのなら救われるというようものではなかった。当時の真実な民の経験について預言者は次のように記録している。
「彼らは無我夢中で喜ぶということはせず、深く心を探り、罪を告白し、世俗を捨てるのであった。主に会う準備をするということが、苦悶する魂の、心の重荷であった。彼らは、たゆまず祈るとともに、神に全的に献身した。」―各時代の大争闘下巻p.107
「大きな喜びの表現などはない。それは、天と地のすべてが、言葉に尽くせない輝きに満ちた喜びをもってともに喜ぶ将来の時まで、抑えておくもののように思われた。大声で叫ぶこともない。それもまた、天からの叫びがあるまで取っておかれる。歌う者たちもだまっている。彼らは、天使たち、天からの聖歌隊に加わるのを待っている。・・・・感情の衝突はない。すべての者は、心を一つにし、思いを一つにしている。」―各時代の大争闘下巻p.107,108
彼らの経験は、現代のキリストの再臨を待つと公言している多くの人々のようなものではなかった。彼らには軽い会話や軽率な行動、軽薄な笑いと世的な服装、真の悔い改めと告白のない生まれ変わり、罪に対する嫌悪感のない喜び、敬虔な畏れや献身と屈伏のない生涯・・・等は全くなかった。
預言者は続けて次のように言っている。
「この運動は、至るところで、人々に深く心を探らせ、天の神の前に心を低くさせた。それは、この世の事物に対する愛着を捨てさせ、争いと敵意を和解させ、罪の告白と神の前での屈伏を行なわせ、悔いくずおれて神に許しと嘉納を求めさせた。それは、これまでわれわれが目撃したことがなかったほど、人々の心を神の前に低くし、ひれ伏させた。」―各時代の大争闘下巻p.108
愛する再臨信徒よ、まだ世に対する愛情や、兄弟間の争い、妬みや恨みがあり、神からのあわれみと許しを得るための完全な悔い改めと告白がないならば、そして主に屈伏し、謙遜な心でみ言葉に全的に従おうとする覚悟がないならば、私たちはまだ第二天使の経験をしていないのである。


世を去る準備


1844年10月22日を待つ真実な民は、世の事物を完全に超越することのできる力を経験した。
彼らの中の若者たちは二人で手をつないで森の中や寂しい場所に行って共に祈り、しばらくして涙にぬれた目で出てきた。このようにして新しい友達になって出てくる姿を見ることは珍しい事ではなかった。皆心の中にある悪い感情をキリストが再臨なさる朝まで持っていようとはしなかった。
彼らは病気、別れ、悲しみ、苦しみ等の全てが・・・3ヵ月後には終わりになると信じた。厳しい寒さの冬が来る前に彼らはこの世を去るのだった。
1844年10月14日再臨使命を伝えていたチャ−ルス・フィッチ(初代文集p.68,69;ホワイト夫人の幻の中で会った人物)は過労によって死んだが、遺族は悲しまなかった。なぜなら一週間後には確実に彼に再会できるからであった。
商人は静かに商店の門を閉め、「3ヵ月後に会う万軍の主、王の王に会うために事業をやめます」という案内文を入り口に張り付けた。技術者は社長の所に行き、職場を辞める理由を説明した。
金を借りたものは借金を返すために財産を整理し、債権者たちや金持ちは兄弟の借金を棒引きにし、借金を返すことができない兄弟の借金を返した。
農夫は作物を収穫することをあきらめ、土地を売って主の再臨を知らせるパンフレットを印刷する資金とした。このような印刷物を出すための資金があまりにも多く持ってこられたために、遂にはもうこのための資金を持ってこないようにという広告が出され、遅れてお金を持ってきた兄弟は天の倉に宝を貯えることができなかったことを悲しみながら帰って行った。
1844年10月22日までに印刷機は朝晩休まずに動き続け、主の再臨を知らせるパンフレットは落ち葉のように道のどこにおいても見ることができた。
再臨を知らせる新聞には「私から被害を受けた者は私を訪ねてください」という記事が載り、主に会うために自分ができる最善の方法を使い、自分を清める働きをした。
遂に1844年10月19日、主が来られる3日前になったとき、息つく暇もなく動き続けてきた印刷機械は止められ、数多くの聴衆に福音を伝えるために建てられた天幕もたたまれた。また使命者と聴衆は集会所の中を掃除して、3日後に天でまた会うことを約束してそれぞれ自分の家に帰った。
使命は伝えられ全ての準備は終わったのだった。「不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」(黙示録22:11)と言う宣告が下ったのだった。
これが1844年10月22日、再臨を待つ信徒の経験であった。そうであるのなら、21世紀を生きる今日の再臨信徒の経験はどうあるべきなのだろうか?今日の再臨信徒たちは真にこの世を去る準備ができているのだろうか?もしそうでないなら、まだ第二天使の経験をしていないのである。
過去の再臨信徒よりも劣る経験を持っていても、天に行くことが出来るであろうと推測するのなら、その信仰は欺瞞である。
兄弟間の悪い感情がまだあなたの心に残っていないだろうか?世に対する愛着と野心を捨てずに神の明確なみ言葉に従わずにいるというようなことはないであろうか?また服従を後回しにしていないであろうか?
一万悪の根となる富を愛して不当な方法で良心を眠らせることをしていないのか?そうであるならまだ私たちは第二天使の経験をしていないのである。私たちの富は神の祭壇に捧げられていなければならず、いついかなる時でも神が要求されるなら躊躇なしに捧げることのできる信仰がなければならないのである。
安息日にも子供を学校に送る親、軍隊と言う特殊な状況の中で神の律法を守るために一回の抵抗もしないまま屈服してしまう若者、このような事実を見ても一言の警告もできない教会の指導者、これら全ての現実は第二天使の経験とは全く異なったものなのである。


世と自己を放棄せよ


「地上の利益よりも救いをもっと大切に評価し、キリストを得るために、全てのことを損と思うようになることである。献身は完全でなければならない。神はあますところのない、また部分的でない犠牲、偶像のない献身をお認めになる。全ての者は自己と世に死ななければならない、それから、わたしたち一人一人が日々神への献身を新たにしよう。永遠の命は生涯をかけ、根気よく、疲れを知らぬ努力をする価値がある。」―わたしたちの高い召し10月29日
「『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい』と言われた(マタイ16:24)。…弟子たちにはイエスのそのみことばがぼんやりしかわからなかったが、それは最もひどい屈辱に身をまかせること、すなわちキリストのために死にいたるまで従うことを彼らにさし示した。救い主のみことばは、これ以上完全な自己の屈服を表現することはできなかった。…
キリストがそのために死なれた魂を愛することは、自我を十字架につけることを意味する。…クリスチャンは、自分が神に献身したこと、また自分の品性を通して世にキリストをあらわすのだということをたえずみとめる。キリストの生活にあらわされた自己犠牲、同情、愛が、神のために働く者の生活に再現される。」―各時代の希望中巻p.186-188
「天使は言った:『神のために全てを犠牲しなさい。自我は死ななければならない。肉の欲望と生まれ変わってない心の傾向は屈服されなければならない。』」―教会への証1巻p.508
「この自己否定は、クリスチャン生活の出発において行なうばかりでなくて、天に向かって前進するごとに、新たにしなければならないものである。」―キリストの実物教訓p.140
「多くのものは、自分たちが神から離れ、自己と罪との奴隷になっていることを自覚している。そして、改革しようと努力するのではあるが、自己を十字架につけない。彼らは自分たちを全くキリストのみ手にまかせて、みこころを行なう力を神に求めようとしない。彼らは、神のかたちにかたどって形造られることを喜ばない。彼らはばく然と自分たちの不完全さを認めはするが、自分たちの犯している罪をすてない。彼らが悪い行為を重ねるごとに古い利己心は勢力を増していくのである。」―キリストの実物教訓p.25
第二天使は今も中空を飛んでいる。再臨信徒よ!もし私たちの生涯に第二天使の使命がないならばバビロンの運命が私たちの運命になってしまう。第二天使の使命は全ての悪と自己を捨て、全ての汚れた所から分離せよと命令している。


三ヵ月後にイエスに会うという使命


第一天使の使命はイエスが10年後に来られると言う使命であったが、第二天使の使命は3ヵ月後にイエスが来られると言う使命であった。なぜなら彼らは主の再臨が1844年3月22日であると信じていたが後に10月22日であることがわかり、7ヵ月の時間が残ったわけだが、預言を再検討するのに4ヵ月を費したので、実際彼らに残った時間は3ヵ月だけであったからである。
3ヵ月しか残ってない生涯、3ヵ月後にはイエスに会うという当時の再臨信徒の体験が今日を生きる私たちの信仰経験となるべきである。
再臨信徒であるなら、3ヵ月後にはイエスが来られるように準備された生涯を生きなければならない。これが第二天使の使命である。
再臨信徒よ!今も第二天使は天を飛んでいる。



もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村