「エリヤの霊と力」

  「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである。」マラ記4:5、6

 この安息日は共にマラキの預言から教訓を受けたいと思います。
 主の大いなる日が何ですか? 主の大いなる日がいつですか?

 これを理解するにはエリヤの働き、彼の使命がどのようなものであったのかを知らなければなりません。
 エリヤはアハブ王の時代に住んでいました。そしてエリヤは死を見ないで天に上げられた二人の中の一人でした。もう一人はだれですか?エノクです。

 列王記下2:11「彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。」
 キリストが十字架にかけられる前にエリヤとモーセが山で会ったことも記録されています。
 マラキ書にはこの預言者エリヤをこの地上に再びつかわすと預言されています。これがいつでしょうか。どのようにそれが可能なのでしょうか?
 ある人がギリシャに住んでいたときの話です。その人は自分がエリヤであると主張する人に会ったことがあるそうです。その人は白いあごひげをはやしていました。その人とたびたび郵便局で会いましたが、彼は何か多くの郵便物をいつも投函していたそうです。はたして彼がエリヤなのでしょうか?聖書の預言はエリヤがいつ来ると言っていますか?
 マラキ4:6では彼の働きが書かれています。彼の働きが何ですか?・・・その働きは回心と和解の働きです。

 エリヤがこの地上にいる時にどんな働きをしましたか?その時代のイスラエル人たちは偶像崇拝に陥っていました。エリヤの使命は彼らを悔い改めさせて、改心させるものでした。その時の王はだれと結婚していましたか。真の神と預言者の敵と結婚していました。彼女はだれの娘でしたか?
 列王上16:31 「彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし、シドンびとの王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、これを拝んだ。」
 シドンの王エテバアルです。彼はハムの子孫カナンの長子がシドンであったと記録されています。偶像礼拝する王の娘がイゼベルでした。彼女は神の預言者たちを殺しました。しかし、100人の預言者たちが洞穴に隠されて水とパンで養われていました。だれがこの預言者たちを守りましたか?

列王記上18:31〜4「アハブは家づかさオバデヤを召した。(オバデヤは深く主を恐れる人で、イゼベルが主の預言者を断ち滅ぼした時、オバデヤは百人の預言者を救い出して五十人ずつほら穴に隠し、パンと水をもって彼らを養った)。」 

この事は最後の時代に神の民が守られることを象徴しています。
イザヤ33:14−16
イゼベルは霊的な指導者として黙示録17章に出てくる赤い獣にのった女のような存在です。
 黙17:3 -6「御使は、わたしを御霊に感じたまま、荒野へ連れて行った。わたしは、そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。その獣は神を汚すかずかずの名でおおわれ、また、それに七つの頭と十の角とがあった。この女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を手に持ち、その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。わたしは、この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た。この女を見た時、わたしは非常に驚きあやしんだ。」

 この黙示録の獣は政治的権力を表しますが、この権力は汚れて霊的な力によって治められています。これは教会を通して働くものであります。エリヤの時代これと同じことが起きました。アハブは王ですから政治的な権力をもっていたのですが、彼は霊的な指導者としての彼の妻によって支配されていたわけです。
 この王の影響によって民は神から離れていました。それで神は飢饉をこの地にあたえられたのでした。エリヤが王の前に出てどのように言いましたか?
列王記上18:17,18「アハブはエリヤを見たとき、彼に言った、『イスラエルを悩ます者よ、あなたはここにいるのですか。』 彼は答えた、『わたしがイスラエルを悩ますのではありません。あなたと、あなたの父の家が悩ましたのです。あなたがたが主の命令を捨て、バアルに従ったためです。』」

 アハブはエリヤにどのように言いましたか?「イスラエルを悩ます者よ」といいました。

 最後の時代に起きる出来事も同じです。神の民は神の律法に従い国の法律に従わないために国を悩ます者として訴えられ、殺しても良いと言う法律がだされます。政治的な権力によって迫害されるのです。しかし、事実は何ですか?エリヤはアハブに何といいましたか?・・・・「わたしがイスラエルを悩ますのではありません。あなたと、あなたの父の家が悩ましたのです。あなたがたが主の命令を捨て、バアルに従ったためです。」

彼は非難され、逃げ去り、孤独を感じましたが、神は彼を守り、隠されました。そして彼がひとりではないことを示して下さいました。バアルにひざをかがめない者が7000人もいることを教えてくれました。
 黙示録では最後の時にもこのような人々がいることを教えています。エリヤの時の何十倍ですか20倍以上の神の民がいることが預言されています。
 新約聖書にわたしたちはエリヤが来たことを見つけることができます。ルカ:1:17 「彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう。」これがだれの事ですか?バプテスマのヨハネです。
 しかし彼がエリヤであるとは言っていません。エリヤの霊と力を持つといっているのです。このようにヨハネの使命はエリヤの使命と同じであったということがわかります。民を悔い改めに導き、罪をその名で呼ぶこと。罪の名前は何ですか? 罪です。しかしエリヤの霊と力を持たない指導者は罪をその名前で呼ばないのです。まるで教会は会社の経営のようただ人を集めるのが目的のようになっています。多くの人々が教会にきても何の罪の自覚も感じず、牧師から耳あたりの良い説教だけを聞いて帰って行きます。罪をその名で呼ばれることはないのです。
 エリヤの時代のように、人々は真の神から離れ、服従せず、罪を愛しています。

 新約時代においてはヘロデがアハブに相当します。そしてヘロデヤがイゼベルに相当します。ヘロデヤの娘がだれでしたか?サロメです。彼女がヨハネの首を要求しました。イゼベルがしたようにヘロデヤは夫を支配し、神の預言者を殺しました。この二人の女の良心は麻痺していました。無感覚でした。
イゼベルは夫がナボテのぶどう畑を欲しがった時、夫の望む物が手に入らないのを知ってこの女がどのようにしましたか?列王上21章 偽りの証をでっち上げて人々にナボテを殺させたのでした。
 最後の時代も同じようなことが起こるでしょう。もし私達が神に忠実なら、私達にも同じことが起こるのです。
 
ヨハネ11:10-12「『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」
 
マタイ17:10−13「 弟子たちはイエスにお尋ねして言った、『いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか。』答えて言われた、『確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう。』そのとき、弟子たちは、イエスバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。」
 このようにエリヤが来るというのはバプテスマのヨハネの出現をさしていたといことがわかります。しかしマラキによるとどのように預言されていましたか?
マラキ4:5「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に」
 主の大いなる恐るべき日がいつですか?イエス様が初臨された時ですか?これは明らかにキリストの再臨の前であるといいうことがわかります。イエスのご再臨の前に主の霊が忠実な神の民に豊かに与えられるという約束です。この時のエリヤが誰ですか?主に選ばれた全ての人々です。揺るがぬ信仰を持ち続けた全ての人々です。  
ナボテはどのようにしましたか?自分のブドウ畑を命をかけて守りとおしました。政治的な圧力にも屈伏しませんでした。彼のように主のブドウ畑を守りとおす人、神の与えられた真理という畑を命をかけて守る人、そのような人がエリヤの霊と力を持つ人々となるのであります。
 彼は政権に対してどのように宣言しましたか?列王上21:3「 ナボテはアハブに言った、『わたしは先祖の嗣業をあなたに譲ることを断じていたしません。』」
 私たちに先祖の嗣業がありますか?あります。それはSDAに与えられた純粋な真理です。これはSDAの先駆者たちに与えられたもので、信仰の土台、現代の真理といわれるものです。そしてSDAにおいてはすでに変更され、壊され、また無視されてしまったこの先祖の嗣業という尊い真理を私達は決してどんなものにも譲ってはならないのです。そのような者たちを神は最後に守られるのです。
 偽りの証によって、人々がナボテを殺そうとしても、彼は決して自分の嗣業を手放しませんでした。
 彼のこの精神は最後の神の民、「神の戒めを守り、イエスの信仰を持つ人々」が持つものであります。彼を殺そうとした人々は自分たちが間違った証によって騙されていることを知らなかったかもしれません。しかし彼等はそれを知ることができました。知ろうとしなければならなかったのでした。
 最後の時代も同じです。世のほとんどの人がアハブやイゼベルによって騙され、真の神の民を憎むようになるでしょう。しかし、全て人は真理を知ろうと思えば知ることができたのです。
 「人間は、審判のときに、偽りを本気で信じたからではなくて、真理を信じないで、真理を学ぶ機会をのがしたために罪に定められる。サタンは、正反対の詭弁を弄しているが、神に従わないことは、常に悲惨なことである。われわれは、真理が何であるかを知るように心がけなければならない。」PP章

ナボテは殺されましたが、最後の時代、神はご自身の力を現されます。
 黙示録17:14 「彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る。」

 私達全ての人々が召されています。今まで偽り信じていた人々はそれを捨て去り、真理に歩むように召されています。なぜなら、私達は真理を知りながらそこに留まることは死を意味することを知っているからです。私達は神に召されてはいますが、神に選ばれなければなりません。忠実であることが証明されて選ばれる必要があります。ですから神は私達をふるいにかけられます。もみ殻は風に吹きとばされ、真の麦だけが残るようにされます。神はもみ殻ではなく実を収穫されるために再臨されるからです。

 マタイ22:14「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。」この世の全ての人々が招かれました。しかし神に選ばれた人は少ないというのはどういうことでしょうか?それは神の祝福を選ぶ人が少ないということです。神は救いを選ばない人を無理やり天に連れて行かれません。私は天に行きたい。そのために要求されるすべてのことに従いたいと望む人が選ばれる者です。

 PP上19章226「神が独断的選択を行い・・・・人間が滅びるのは、自分自身の選択によるのであって、そのように選ばれたのではない。神は、み言葉の中に、すべての魂が永遠の命に選ばれる条件をお示しになった。それは、キリストを信じる信仰によって、神の戒めに従うことである。神は、神の律法と一致した品性を選ばれるのであるから、だれでも神の要求される標準に達する者は、栄光の王国にはいることができる。キリストご自身はこう言われた。『御子を信じる者は永遠の命をもつ』(ヨハネ 3:36)。『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の、御旨を、行う者、だけが、はいるのである』(マタイ 7:21)。そして、主は、黙示録のなかで言われる。『いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである』(黙示録 22:14)。人間の最後の救いについて、み言葉の中にあらわされている選びとは、これだけである。
 おそれおののいて自分の救いを達成しようとする者はみな選ばれている。武具をまとって、信仰のよき戦いをする者は選ばれている。目をさまして祈り、み言葉を研究し、誘惑からのがれる者は選ばれている。常に信仰を持ち、神のみ口から出るすべてのことばに従おうとする者は選ばれている。贖罪に必要なことがらはすべての者に無代で与えられている。贖罪の成果は、条件に応じる者に与えられる。」

 現代多くの欺瞞がサタンによって考え出されています。この欺瞞をだれが話しますか?皆が尊敬するような有名な学者たちが話します。救いは信仰によって得るものであって、行いによるものではない。だから安息日を守る必要はないという結論に導きます。遠回しに巧妙な理論で、耳あたりのよい話をして、偽りに導きます。
 私達はそれらの欺瞞に耐えられるでしょうか?昔ながらの先祖の嗣業、ブドウ畑を守りとおせるでしょうか?もし、私達に世的な思いがあるのなら、危険です。あんな有名な大学の教授が話すのなら間違いない、あんなに多く信徒がいる教会の牧師なら、あんなすばらしい奇跡を起こす牧師なら偽りを言うはずがない・・・・という思いがあるのなら、危険です。
 御言葉の確信、真理はどんな人が得られますか。謙遜な求める魂が聖霊の働きによって、得られるものです。

 特別にイエスが再臨なさろうとしている最後の時代、神はエリヤの霊と力によって神の最後の働きを成し遂げられます。
バプテスマのヨハネがどのような人でしたか?世の人々から尊敬されるような何かがありましたか?
 彼は衣服と食事と御言葉に対する改革者でありました。彼はイナゴ豆とはちみつという質素な食事をし、質素な衣服をつけ、ただ御言葉だけによって教育を受けたものでした。
 
食事と食物の勧告98.「幾年も神は、彼の民の注意を健康改革に向けてこられた。これは、人の子の来臨に備える働きの主要な部分の1つである。バプテスマのヨハネは主の道を備え、人々に義人の思いを持たせるためにエリヤの霊と力とをもって出て行った。彼は、キリストの再臨に人々を備えるための神聖な真理を示すようにこの最終時代に生存する、神から委託された者たちの代表者である。ヨハネは改革者であった。天使ガブリエルは直接天から遣わされてヨハネの父母に健康改革に関する教えを与え、ヨハネが酒や強い飲料を飲んではならない事、また、誕生の時から聖霊で満たされるということを話した。
ヨハネは友人や贅沢な生活から自分で離れた。らくだの毛で織られた衣服という彼の服装の単純さは、ユダヤの祭司たちや一般の民の贅沢さと見栄を張ることに対する絶えざる譴責であった。また、彼のいなご豆と野蜜で出来上がった純菜食の食事は、至る所にはびこっていた食欲への耽溺や暴食に対する譴責であった。預言者マラキは、『見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせる』と述べているが、ここに預言者はその働きの性質を説明している。ヨハネがエリヤの霊をもってキリスト初臨の道を備えたように、キリストのご再臨のために道を備えなければならない人々も、忠実なエリヤとして表されるのである。
改革の大問題が論議され、一般民衆の心が覚醒させられなければならない。神の民を彼らの偶像礼拝、すなわち暴食、衣服やその他の贅沢から転じさせるために、すべての事における節制を再臨の使命と結合させなければならない。」

 神は最後の時代、エリヤをつかわされます。そのエリヤは神の残りの民一人一人でなければならないのです。
 ヨハネはイエスの初臨の時の道を備えました。しかしより大いなる働きが最終時代に預言されています。それがいつですか?主の大いなる日はイエスの再臨の時です。その時何が起きますか?
 第一テサロニケ4:13 −17「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」

 私達は死を見ないで天に上げられるか、よみがえらされて天にあげられるかはわかりません。しかし、アダムたちが罪をおかしてから6000年という長い間、神の民の最大の望み、最高の喜びの日であった私達の主の再臨の道を備える働きが私達に与えられています。
 これは私たちにとって最高の特権ではないでしょうか?

  DA10章上100「ヨハネは、預言者として、『父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備える』のであった(ルカ 1:1 7 )。彼は、キリストの初臨に道を備えたことにおいて、主の再臨に民を備えさせる人々を代表していた。世は放縦に陥っている。誤謬と作り話があふれている。魂を滅ぼそうとするサタンのわながふえている。『神をおそれて全く清く』なりたい人はみな節制と自制について教訓を学ばねばならない(Ⅱコリント 7:1 )。食欲と情欲はもっと高い知能に服従させられねばならない。この自己訓練は、われわれに神のみことばの聖なる真理を理解し実行する力を与えてくれる知能の力と霊的な洞察(どうさつ)力とにとって欠くことのできないものである。この理由から、節制はキリスト再臨に備える働きの一部である。」

 イザヤ 40:1―5「あなたがたの神は言われる、『慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ・・・・・・た』。呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る』」

荒野がどこですか?砂漠がどこですか?私達の住んでいるこの世です。欺瞞に満ち、サタンに支配されている水のない砂漠です。谷や山や丘がどこにありますか?私達の心にあります。主は言われました。あなた方にもし、からし種くらいの信仰があれば、何を移すことができますか?山を移すことができる。この山は人の心の中にある高慢、自己、罪です。私達の心また人々の心は福音によって低くされなければなりません。この働きをするのがエリヤの働きです。

DA14章151「昔、王が自分の領土のめったに訪れたことのない地方を旅行する時には、一団の人々が、王の戦車より先に行って、けわしい道を平らにし、穴を埋めて、王が安全に支障なく旅行できるようにした。福音の働きを例示するために預言者イザヤはこの習慣を引用して、『もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ』と言っている(イザヤ40:4 )。神のみたまが人をめざめさせるふしぎな力をもって魂にふれる時、人間の誇りは低くされる。世の楽しみ、地位、権力は無価値にみえる。『神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ』る(Ⅱコリント 10:5)。その時、人々に重んじられていない謙遜と自己犠牲の愛が唯一の価値あるものとして高められる。これが福音の働きであり、ヨハネの使命はその一部分であった。」
 この高い物を低くし、低いものを高くする。価値があると思っていたものを価値のないものとし、価値がないものと思っていたものを価値のある者とする。これが福音の働き、信仰の働き、そして改革の働きです。

主が間もなく来られます。私達がエリヤの霊と力を受けるのは神の御心です。
 その御心がなしとげられますように心からお祈りいたします。アーメン

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