「罪からの救いを見いだせるところ」

  「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。」(コロサイ1:13,14)

 天の君は、人を高い地位に置かれた。人の命はカルバリーの十字架の代価によって評価される。……わたしたちは罪の堕落のどん底から、神の御子であるキリストと共に相続人、神の子、王、いと高き方の祭司になるまでに高められることができるのである。……
 キリストがバプテスマの後にヨルダンの岸辺にひざまずかれた時、天が開けて、御霊が磨かれた金のように、はとの形で下ってきて、栄光でキリストを囲んだ。そして、最も高い天から神の声が聞こえた、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3:17)。人類のためのキリストの祈りは天の門を開き、御父がそれに応えられ、堕落した人類のための嘆願を受け入れられた。イエスは、わたしたちの身代わりと保証人として祈られ、今人類家族は神の愛する御子の功績を通して、御父のもとに行くことができるのである。イエスは「道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)。天の門が開かれ、神の御座からの輝きが、このお方を愛する者の心を照らすのである。(レビュー・アンド・ヘラルド1888年2月28日)
 ヨルダン川で、イエスに……言われたことばは、全人類を含んでいる。神はわれわれの代表者としてのイエスに語られた。どんなに罪や欠点をもっていても、われわれは無価値なものとして捨てられることはない。……。キリストの上にくだった栄光は、われわれに対する神の愛の保証である。それは祈りの力について、すなわち人間の声が神の御耳にとどくことと、われわれの祈願が天の宮廷に受け入れられることとを告げている。罪によって、地は天から切り離され、天とのまじわりから遠ざけられた。だがイエスは地をもう一度栄光の天とむすびつけられた。イエスの愛は人類をとりまき、最高の天に達した。開かれた門から救い主の頭上にさした光が、試みに抵抗するために助けを祈るとき、われわれの上にさすのである。イエスに語られたみ声が、信じているひとりびとりにむかって「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と言われるのである。……われらのあがない主が道をお開きになったので、どんなに罪深い者も、どんなに困っている者も、……天父に近づくことができる。だれでもみな、イエスが備えに行かれた住居をわが家とすることができる。(各時代の希望上巻118,119)


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