「すべての者が近づくことができる」

 「この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのである。」(エペソ3:12)

 聖潔な心と純潔な生活を真剣に求めながら、困惑し落胆している人々が少なくない。……魂が時々暗黒と失望に捕えられ、いまにも押しつぶされそうに思えることがあるが、しかし確信を投げ捨ててはならない。感じても感じなくても、イエスにしっかり目を注いでいよう。わかっているかぎりの義務を忠実に尽し、あとは神の約束に安んじていよう。
 時々、わたしたちは自分の無価値なことを思って、魂が恐れにうちふるえることがあるが、しかしこれはわたしたちに対する神の態度が変ったとか、あるいは神に対するわたしたちの態度が変ったという証拠ではない。心をいつもある強烈な感情にまで高めておくために努力する必要はない。昨日心に感じられた平安とよろこびを今日は感じることができないかもしれない。しかし信仰によってキリストのみ手をつかみ、暗黒の中にあっても明るい時と同じように全的に主に寄り頼むべきである。
 サタンは、「あなたはキリストの救いを受けられないほどの大罪人だ」とささやくかもしれない。しかしわたしたちは、自分が全く無価値な罪深い人間であることを認めるとともにまた、「贖いの力によってわたしはキリストを救い主とすることができる。わたしは自分の功績にたよらず、わたしをきよめて下さるキリストの尊い血に寄り頼む。今この瞬間、わたしのたよりない魂はキリストによりすがるのだ」との叫びをもって、誘惑者に立ち向かうことができる。……
 自分の心がかたくなに見えるからといって落胆してはならない。障害や心の中の敵はすべてキリストの必要を増すにすぎない。キリストは石の心を取り去り肉の心を与えるために来られたのである。自分の特別な欠点に勝利するために特別な恩恵をキリストに求めなさい。誘惑に襲われたときには悪のそそのかしに対してかたく抵抗しなさい。……救い主に助けを叫びもとめなさい。父なる神のみ座の前に立ち、その傷ついたみ手をさし出してわたしたちのために弁護しておられるイエスを、信仰の目をもってながめなさい。尊い救い主を通して力が与えられることを信じなさい。……
 キリストと天の世界のことを、もっと深く心に思うならば、主の戦いを戦う上に強力な刺激と支持が与えられる。……キリストの美しさにくらべるとき、世のすべての魅力はなんの価値もないものに見えるのである。(清められた生涯89-91)

もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村