「芳しい香のような祈り」

 「別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。」(黙示録8:3)

 真の祈りは全能者をつかみ、わたしたちに勝利を与える。クリスチャンはひざまずくことによって、誘惑に抵抗する力を得る。……魂の静かで熱心な祈りは、聖なる香のように恵みの御座に上り、聖所で捧げられた香のように神に受け入れられる。このようにして神を求めるすべての者に、キリストは時機を得た助けとなられる。彼らは試みの日に強いのである。(教会への証4巻616)
 コルネリオが神からいただいたような賞賛は、誰にとっても生涯の素晴らしい特権であろう。何を根拠としてこのように認められたのであろうか。「あなたの祈りや施しは神のみ前にとどいて、覚えられている」(使徒行伝10:4)。
 祈りにも施しにも、それ自体には罪人を神に受け入れさせる何の価値もない。キリストの贖いの犠牲による恵みだけが、心を新たにして、わたしたちの奉仕を神に受け入れられるものとする。この恵みがコルネリオの心を感動させた。キリストの霊が彼の魂に語りかけた。イエスが彼を引き付け、彼は引き寄せられるままに身を任せた。彼の祈りと施しは、強制されたのでもなければ無理強いされたものでもなかった。それは天国を保証するために払おうとしていた値ではなく、神への愛と感謝の実であった。
 真面目な心からのそのような祈りは、主のみ前に薫香のように上って行く。そして神の働きのための捧げ物や、貧しく苦しんでいる者たちへの贈り物は、神を喜ばせる犠牲である。……
 祈りと施しは、神及び同胞への愛の表現であって、緊密に結びついている。それは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」、また「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」(マルコ12:30,31)という神の律法の二つの大原則を完成するものである。このように、わたしたちの贈り物は、神に自分を推薦したり、神の好意を得ることはできないが、わたしたちがキリストの恵みを受け入れたことの証拠なのである。それはわたしたちの愛の告白の誠実さをテストするものである。(SDAバイブル・コメンタリー6巻1059)

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