「キリストの苦しみにあずかる」

 「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。」(ペテロ第一4:13)

 力を得るためには運動しなければならない。強い信仰を得るためには、わたしたちの信仰が働かされる状況に自身を置かなければならない。……わたしたちが神の御国に入るのは、多くの苦難を通してである。わたしたちの救い主はあらゆる方法によって試みられたが、神によって絶えず勝利された。すべての状況下において、神の力によって強くなり、キリストの十字架によって栄化されるのはわたしたちの特権である。(教会への証3巻67)
 現世においてわたしたちは激しい試みに直面し、大きな犠牲を払わなければならないが、キリストの平安が報いとして与えられる。自己否定があまりされていない。キリストのために苦しむことがあまりないので、十字架がほとんど忘れられている。わたしたちは勝利してこのお方の御座に座りたいのならば、キリストの苦しみにあずかる者とならなければならない。(教会への証5巻215)
 天国は、義のために苦しむ者のそば近くにある。キリストはその忠実な民と利害を一つにされる。キリストは彼の聖徒が苦しむときに苦しまれる。そして彼の選民に触れる者は、だれでもキリストに触れるのである。肉体的危害や苦難から救うためにそば近くにある力は、またさらに大いなる悪から救うためにそば近くにあって、神のしもべに、どんな状況のもとにあってもその誠実さを堅持する力を与えて、神の恵みによって勝利することを可能にするのである。(国と指導者下巻155)
 迫害は、キリストの弟子にとっては、悲しみをひきおこすどころか、かえって喜びとなるはずである。なぜならそれは、彼らが主の足跡に従っている証拠だからである。主はご自分の民が試練をまぬかれるという約束はなさらなかったが、はるかに良いものを約束された。主は「あなたの力はあなたの年と共に続くであろう」と言われた(申命記33:25)。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(コリント第二12:9)。もしあなたが主のために火の燃える炉を通るように召されるならば、イエスはバビロンの忠実な三人の青年たちと共におられたように、あなたのかたわらにおられる。贖い主を愛する者は、主とともに屈辱とそしりに会う機会があるたびに喜ぶ。彼らは、主を愛しているので、主のための苦しみを少しもいとわないのである。(祝福の山36,37)

もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村