58「偉大な神の愛」

 

 キリストは我等の罪深い心と値無き自己とご自身の所有物とを交換しようとして勧告する商人のようなものである。すなわち「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ」(イザヤ55:1)とはこれらの事をいったものである。これは何と奇妙な商売ではないか。しかし主はこのように謙遜に我等を扱ってくださるのである。
 古代アッシリアの石碑に、威風堂々たる征服者の前にひざまづいて許しを乞うている捕虜の姿を彫刻したものがある。しかし天の神はそのような王ではない。たとえ我らが彼とその律法およびその政府に反逆したとはいえ、彼はたんに請願することによって彼の恩恵と最も貴き宝とを付与されるのである。実に彼の大いなる愛には感銘せざるをえない。なお下記の物語はこのような神の偉大な愛を述べたところのものである。
 ある寒い冬の日に、みすぼらしい一人の婦人が、王の温室の側に立って熟しているブドウをながめ、どうにかしてその一房を病床の子供に与えたいとひたすら考えていた。そこで彼女は家に帰り糸をつむいでいくらかの金をもうけ、その園丁の許を訪ねて一房のブドウを購入しようとした。だが園丁はこれを拒んで追い返してしまった。やむをえず彼女は自分の部屋に帰り、自分のベッドから毛布をとって質入れした。そして彼女はふたたび園丁を訪ね、5シリングを差し出してブドウを求めようとした。すると園丁は非常に怒って、再び彼女を追い返そうとした。時に折よく王女がその側を通られ、園丁の怒る様子と泣き崩れている夫人の姿をみて、その理由を尋ねられたが、やがてその顚末を聞き終わった王女が、「あなた(婦人)は思い違いをしています。私の父は商人ではありません。一国の皇帝です。ですから売ることはいたしませんが、与えることはいたします」と言い終わらないうちに、数房のブドウをとってその婦人の前掛の上においた。
 このように神は我等を愛されているので、我等各自に言い尽くせない賜物を与えてくださいました。パウロは言った。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」(ローマ8:32)。


もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村