「敬虔をもって行く」

 「感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。」(ヘブル12:28)

 敬虔と信心深い恐れと献身的な愛を持ってどのように神のもとに行くかという、知的な知識が必要である。わたしたちの主に対する敬虔が減少しており、このお方の偉大さと威厳に対する軽視が増加している。しかし、神はこの終わりの時代にいるわたしたちに語られている。わたしたちは嵐の中にも、とどろく雷鳴の中にもこのお方のみ声を聞くのである。わたしたちは、地震や水の噴出によって神がお許しになる災難や、すべてを一掃する破壊的要素について耳にする。(セレクテッド・メッセージ2巻315)
 この危険な時代において、神の戒めを守る民と公言している者たちは、敬虔の念と信心の恐れを失う傾向に注意すべきである。聖書は人が創造主にどのように近づくか―謙遜と畏敬を持って、聖なる仲保者に対する信仰を通して―を教えている。人は恵みを受ける対象、すなわちあわれみの足台にいる嘆願者として、ひざまずいて近づくべきである。そのように、彼は魂と体と霊のすべてが自分の創造主に属していることを実証するのである。
 公的と私的の礼拝の両方において、わたしたちが神に嘆願する時には、神のみ前にひざまずくのが、わたしたちの義務である。わたしたちの模範であられるイエスは、「ひざまずいて祈られた」。弟子たちについても、彼らは「ひざまずいて祈った」と記されている。ステパノは「ひざまず」いた。使徒パウロは、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神に「ひざをかがめ」ると言った(エペソ3:14)。エズライスラエルの罪を神に告白した時に、ひざまずいた。ダニエルは「1日に3度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した」(ダニエル6:10)。詩篇記者は、「さあ、われらは拝み、ひれ伏し、われらの造り主、主のみ前にひざまずこう」と招いている(詩篇95:6)。
 「あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え」ることである(申命記10:12)。……「見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある」(詩篇33:18)。「謙遜と主を恐れることとの報いは、富と誉と命とである」(箴言22:4)。(レビュー・アンド・ヘラルド1905年11月30日)

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