「へりくだりと聖なる畏れのうちに行く」

 「主は聖なる者の会議において恐るべき神、そのまわりにあるすべての者にまさって大いなる恐るべき者です。」(詩篇89:7)

 神のみ前にくるすべての者の態度は、けんそんで敬神深いものでなければならない。われわれは、イエスのみ名によって、確信を持ってみ前に出ることができるが、あたかも神がわれわれと同等であられるかのように、無遠慮な態度で近づくべきではない。近づくことのできない光の中に住み、偉大で、全能であられる聖なる神にむかって、あたかも同等か、あるいは目下のものに話しかけるような言葉を用いる人がある。また、神の家の中において、地上の王たちの謁見室では決してしないような不謹慎な態度をとる人がいる。これらの人々は、自分が今、セラピムたちが賛美をささげ、み使いたちもそのみ前にあって翼をもって顔をおおう神のみ前にあるということをおぼえていなければならない。神は大いに尊ばなければならないかたである。神のご臨在を真に感じるものはみな、そのみ前に謙虚に伏す……のである。(人類のあけぼの上巻286)
 ある人々は、祈る時、人間同士で話すように、普通に話すように神に祈ることは謙虚のしるしだと考えるが、彼らは「全能なる神」という言葉を不必要に不敬虔の態度をもって祈りの中に乱用し、神の聖名を汚すのである。この「全能の神」という言葉は神聖な言葉であって、静かな調子で畏敬の念をもって用いられる時以外、口から出すべきではない。……
 天で聞かれ地で答えられる祈りは、心の奥底から出る信仰の祈りである。神は人類の必要を理解される。神はわたしたちが求める前から、わたしたちが願うものを知っておられる。神は魂の疑いと試みの戦いをご覧になられる。神は嘆願者の真剣さに注意を払われる。神は魂のへりくだりと苦悩を受けいれられる。神は「わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である」と仰せられる。
 聖霊がわたしたちの嘆願を導いて下さるので、必ず聞かれるという確信をもって祈るのはわたしたちの特権である。求めるものを単純に主に訴え、み約束を主張すべきである。……
 わたしたちの祈りは、愛と優しさに満たされたものであるべきである。わたしたちが、救い主の愛を一層深く、また広く意識しようとすれば、必ずさらに多くの知識を求めて神に叫ぶはずである。もし魂を揺すぶる祈りと説教を必要とする時代があったとしたら、それは今である。今や万物の終わりは間近に迫っている。どうかわたしたちが、主を心から求める必要を悟ることができるように。そうすればわたしたちは必ず主を見出すことができる。どうか神が民にどのように祈るべきか教えて下さるように。(ゴスペル・ワーカー176,178)

もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村