84「ダニエルの祈祷」


 「すなわちわたしは、わが神、主に祈り、ざんげして言った、『ああ、大いなる恐るべき神、主、おのれを愛し、おのれの戒めを守る者のために契約を保ち、いつくしみを施される者よ、』」ダニエル9:4

 ここにダニエルの力ある祈りが記してある。すなわちこれは心の奥底より出る謙遜と懺悔の祈りであり、だれでも感動を受けないで読むことの出来ないものである。彼は先ず神が忠実に約束を守られる事を表明した。すなわち神はいまだかつてその民になされた契約を破った事はない。その当時ユダヤ人が捕囚の試練に会っていたのは、神の加護が足りなかったわけではない。それはただユダヤ人の罪のためであった。
 「われわれは罪を犯し、悪をおこない、よこしまなふるまいをなし、そむいて、あなたの戒めと、おきてを離れました。われわれはまた、あなたのしもべなる預言者たちが、あなたの名をもって、われわれの王たち、君たち、先祖たち、および国のすべての民に告げた言葉に聞き従いませんでした。主よ、正義はあなたのものですが、恥はわれわれに加えられて、今日のような有様です。すなわちユダの人々、エルサレムの住民および全イスラエルの者は、近き者も、遠き者もみな、あなたが追いやられたすべての国々で恥をこうむりました。これは彼らがあなたにそむいて犯した罪によるのです。主よ、恥はわれわれのもの、われわれの王たち、君たちおよび先祖たちのものです。これはわれわれがあなたにむかって罪を犯したからです。あわれみと、ゆるしはわれわれの神、主のものです。これはわれわれが彼にそむいたからです。またわれわれの神、主のみ声に聞き従わず、主がそのしもべ預言者たちによって、われわれの前に賜わった律法を行わなかったからです。またとにイスラエルの人々は皆あなたの律法を犯し、離れ去って、あなたのみ声に聞き従わなかったので、神のしもべモーセの律法にしるされたのろいと誓いが、われわれの上に注ぎかかりました。これはわれわれが神にむかって罪を犯したからです。すなわち神は大いなる災をわれわれの上にくだして、さきにわれわれと、われわれを治めたつかさたちにむかって告げられた言葉を実行されたのです。あのエルサレムに臨んだような事は、全天下にいまだかつてなかった事です。モーセの律法にしるされたように、この災はすべてわれわれに臨みましたが、なおわれわれの神、主の恵みを請い求めることをせず、その不義を離れて、あなたの真理を悟ることをもしませんでした。 それゆえ、主はこれを心に留めて、災をわれわれに下されたのです。われわれの神、主は、何事をされるにも、正しくあらせられます。ところが、われわれはそのみ声に聞き従わなかったのです。」ダニエル書9:5〜14
 ここまでのダニエルの祈りは全ての罪に対する悲痛な懺悔である。彼は神が預言者モーセによって警告なされたように、ユダヤ人の上にくだった災害の原因は彼等の罪であった事を承認し、神のとられる処置の正当な事を陳述している。そしてダニエルは自分だけは例外で恩恵に浴するに足る者であることは言っていない。彼の祈りの中には自らを義とするような言葉は一言もない。彼は他の人々の罪のために長年にわたって苦しみ、その民の罪悪のために七十年間捕囚の身となった。しかもその期間彼は自ら敬虔な生涯を送り、その証拠として神より名誉と祝福とを与えられていたにもかかわらず、だれをも非難しなかった。また彼は他人の罪のために犠牲になっていることに対して何ら同情を求めなかった。彼はむしろ罪人の一人となって、我々は罪を犯したので恥は我々のものであると言った。すなわちダニエルは、ユダヤ人が災害を通して神が与えようとした教訓を学ばず再び神より遠ざかった事を承認した。
 十四節は特別に注意に値する言葉である。「それゆえ、主はこれを心に留めて、災をわれわれに下されたのです。」悪事にたいする刑罰が速やかにくだらないために、人の子はいつまでも悪事を行うのである。しかしだれも神は見られないのであろうとか、あるいは忘れておられるのであるなどと考えてはならない。神の刑罰は必ず罪人の上にくだるのである。神は罪悪を決して見過されない。そして神のよしとされるときに刑罰をくだされるのである。

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