「聖なる経験」

 「全地は主を恐れ、世に住むすべての者は主を恐れかしこめ。」(詩篇33:8)

 聖天使は、多くの人々が不敬にも大いなるエホバなる神の御名を用いることを不快に思っている。天使はその聖なる御名を大いなる畏敬をもって口にし、神の御名を語る時には彼らの顔を覆うのである。そして、キリストの御名は彼らにとって非常に聖なるものであるから、大いなる崇敬をもって語るのである。(教会への証1巻410)
 神に真の崇敬の念を抱くということは、神の無限の偉大さと神の臨在を自覚することによるのである。すべての者は見えない神に対して、こうした思いを心から抱かなければならない。祈りの時間と場所は神聖である。なぜならば、神がそこにおられるからである。そして、崇敬の念が態度とふるまいにあらわされるときに、その感じはさらに深まるのである。「そのみ名は聖にして、おそれおおい」と詩篇記者は言っている。そのみ名を語るとき、天使たちは彼らの顔をおおうのである。もしそうであるならば、堕落した罪深いわれわれは、どんな崇敬の念をもって、それを、われわれの口にしなければならないことであろう。(国と指導者上巻23)
 神の特別なご臨在の示されている場所をどうみなすべきかということについて、聖書にしるされている言葉を学び、熟考し、幾度も口にくりかえすことは、子供にもおとなにもたいせつである。神は燃えるしばの中からモーセに、「足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」(出エジプト記3:5)と仰せになった。ヤコブは天使の幻をみて、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった。……これは神の家である。これは天の門だ」(創世記28:16,17)と叫んだ。「しかし、主はその聖なる宮にいます、全地はそのみ前に沈黙せよ」(ハバクク2:20)とある。

「主は大いなる神、
すべての神にまさって大いなる王だからである。……
さあ、われらは拝み、ひれ伏し、
われらの造り主、主のみ前にひざまずこう。」(詩篇95:3-6)
「われらを造られたものは主であって、
われらは主のものである。
われらはその民、その牧の羊である。
感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、
その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。」(詩編100:3,4)
(教育286,287)

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