59「敬虔の徳を欠く」


 世にはキリストの中にある真のクリスチャン敬虔を模倣しながら、その実自らはキリストに居ないいわゆる形式的クリスチャンがいる。たとえ彼らは大いなる熱心と教理上の多くの知識とを有し、病を癒し、他の驚くべき奇跡をなし、あるいはバラムのような預言する力をもっているとしても、彼らは依然として霊的には貧弱なラオデキヤ教会の状態にいるのである。彼らの中には伝道に熱心であり、また現代の真理によく精通し、キリストの再臨が近いことを示す徴が各方面にわたって著しく増加しているこの終末の時代において(ダニエル12:4、マタイ24:14)預言的、教理的、実際的な知識を有しながら、神のことにおいては生きた経験をもっていない者がある。しかし、彼らは皆富み、また豊かであると感じている。なんという痛ましい事であろう。彼らは欺かれているのである。かつて一人の人が、大貿易港の桟橋をぶらぶら歩きながら、世界の大航路に属する船はことごとく自分の所有であると大声で叫んだ。彼は自分が貧しく無一文であることを思わず、単に船を眺めて所有権を主張したのであるが、そうしたことが船を彼の所有にしたのではなかった。これと同様のことが教会内の大多数の人々の間にも繰り返されている。彼らは迷夢より醒め、欺かれないように警戒していなければならない。彼らの全身全霊は聖霊と熱心と熱情と力と生けるキリスト教に向かって絶叫しかつ求めなくてはならない。そして彼らの義は、自己とその全ての業が救い主の功徳の中に呑まれたものでなくてはならない。七つの教会の中サルデスとラオデキヤだけが賞賛を受けなかった。この二つの教会は初めから終わりまで敬虔の徳に欠けていることを叱責されている。そしてこれらの町のみが現在その存在を全く絶っているのである。


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