「あがめられた御名」

 「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。」(マタイ6:9)

 主のみ名をあがめるためには、わたしたちは、神に畏敬の念をもって語らなければならない。「そのみ名は聖にして、おそれおおい」(詩篇111:9)。決して神の称号や名称を軽々しく取り扱ってはならない。祈りをささげる時、わたしたちは至高者の謁見室にはいるのである。わたしたちは聖なるおそれをもって神のみ前に出るべきである。天使たちも神のみ前では顔をおおうのである。ケルビムや輝く聖なるセラピムも、厳粛な崇敬の念をもってそのみ座に近づくのである。まして、わたしたちのような有限で罪深い者は、いかにうやうやしい態度をもってわたしたちの造り主なる主のみ前に出なければならないことであろう。
 しかし、主のみ名をあがめるということには、もっと多くの意味が含まれている。キリストの時代のユダヤ人たちのように、外面的には最大の尊敬を神にささげながら、神のみ名を絶えず汚すということもあり得るのである。「主の名」は「あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる……悪と、とがと、罪とをゆるす者」である(出エジプト記34:5-7)。
 キリストの教会について、「その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる」と書かれている(エレミヤ書33:16)。この名は、キリストに従うすべての者に与えられる。それは神の子の遺産である。家族は父の名によって呼ばれる。預言者エレミヤは、イスラエルのきびしい苦難の時に、「われわれは、み名によって呼ばれている者です。われわれを見捨てないでください」と祈った(エレミヤ書14:9)。
 このみ名は、天使たちや堕落したことのない諸世界の人々によってあがめられている。あなたがたが、「御名があがめられますように」と祈る時、あなたがたは、それがこの世において、また、あなたがたによってあがめられるようにと求めるのである。神はあなたを人々や天使たちの前に、ご自分の子としてお認めになった。「あなたがたに対して唱えられた尊い御名」を汚すことのないように祈ることを望むのである。神はあなたがたを神の代表者として世におつかわしになる(ヤコブ2:7)。生活のあらゆる行ないのうちに、あなたがたは神のみ名をあらわすべきである。この願いは、神のご品性を持つことを要求する。生活と品性において神のいのちとご品性そのものをあらわさないならば、神のみ名をあがめることも、世に神をあらわすこともできない。このことは、キリストの恵みと義を受けることによってのみなされるのである。(祝福の山132-134)

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