85「ダニエルの哀訴」


 「われわれの神、主よ、あなたは強きみ手をもって、あなたの民をエジプトの地から導き出して、今日のように、み名をあげられました。われわれは罪を犯し、よこしまなふるまいをしました。主よ、どうぞあなたが、これまで正しいみわざをなされたように、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山から、あなたの怒りと憤りとを取り去ってください。これはわれわれの罪と、われわれの先祖の不義のために、エルサレムと、あなたの民が、われわれの周囲の者の物笑いとなったからです。それゆえ、われわれの神よ、しもべの祈と願いを聞いてください。主よ、あなたご自身のために、あの荒れたあなたの聖所に、あなたのみ顔を輝かせてください。わが神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、われわれの荒れたさまを見、み名をもってとなえられる町をごらんください。われわれがあなたの前に祈をささげるのは、われわれの義によるのではなく、ただあなたの大いなるあわれみによるのです。主よ、聞いてください。主よ、ゆるしてください。主よ、み心に留めて、おこなってください。わが神よ、あなたご自身のために、これを延ばさないでください。あなたの町と、あなたの民は、み名をもってとなえられているからです。」ダニエル9:15〜19
 ここに預言者ダニエルは主の御名の栄えのために我が祈りを聞き入れてくださいと祈った。すなわち彼はイスラエル人がエジプトより導きだされた時、彼らのためになされた驚くべき業によって主の御名のあげられた事実を引証している。もし神が今彼等を顧みられないならばそれらの全ては徒労であるといったのである。モーセイスラエル人のために神に哀訴した時と同じ論法を用いた。(民数記14章参照)これは何も神が野心や虚しい名誉などの動機のために動かれるからではない。が、しかし神の民が主の名のあげられる事を熱心に望むあまり、その愛を表明するために自己のためではなく主の御名が神を知らない者の間に汚されないように、主の栄えのために聞き入れくださいと祈るのは御心にかなうことである。次にダニエルは神の名によってとなえられたエルサレムおよび神が熱愛された聖なる山のために、神のおおいなるあわれみのために憤りを取り離されることを哀訴した。最後に彼の思いは聖所すなわち地上における神の住居に集中した。そして彼は荒れた聖所が復興する事を祈り求めた。
 ダニエルは70年の捕囚が終わる時と、第8章に記録している幻の一つである2300日の終わりに聖所が清められるという預言の成就とは同じ時であると考えたらしい。これは何も聖書に明確に書いてあるわけではない。前後の関係からこのように推察されるのである。が、これは確かに一つの誤解である事は明白である。しかしこの誤解は彼の祈りの結果天使が来られてより深く説明した時に、たちまち訂正されたのである。その顚末は次のように記してある。


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