「すべての心にある御座」

 「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み。」(エペソ3:17)

 神はわたしたちを買い取られたのであるから、各自の心の王座を要求なさる。わたしたちの精神と身体は神に従属すべきであり、生来の習慣や食欲は、魂のより高い要求に従属させるべきである。だがわたしたちは、この働きにおいて自分自身に依存することは一切できない。わたしたちは自分の案内に従っては、安全であり得ない。聖霊がわたしたちを新たにし、聖別しなければならない。神への奉仕においては中途半端な仕事があってはならない。(SDAバイブル・コメンタリー6巻1088)
 心が罪から清められる時、かつて自己満足と地上の宝への愛が占めていた座にキリストがつかれる。キリストのみ姿が、顔の表情に見られる。聖化の働きが魂の内に進められる。自己義が消え去る。新しい人が着せられ、義と真の聖潔の内にキリストにかたどって創造される。(管理者への勧告27,28)
 「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」(コリント第二3:18)。キリストを眺めるということの意味は、み言葉の内にこのお方の生涯を研究するということである。わたしたちは真理を隠された宝のように掘り下げるべきである。目をキリストに留めなければならない。このお方を自分の個人的救い主とする時、そのことがわたしたちを恵みの御座に大胆に行かせるのである。眺めることによってわたしたちは変えられ、品性において完全であられるお方に道徳的に同化するようになる。このお方が与えられる義を受け入れることにより、聖霊の改変させる力を通して、わたしたちはキリストのようになる。キリストのみ形を思い続ける時、それはわたしたちのすべてを魅了するのである。(SDAバイブル・コメンタリー6巻1098)
 魂が上へ向かって前進していることは、イエスが心を支配なさっていることを示している。イエスが、ご自分の平和と喜びとこのお方の愛という祝福された実を放たれるために用いられる心は、このお方の宮、このお方の御座となる。「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」とキリストは言われる(ヨハネ15:14)。(教会への証5巻553)
 あなたが与えることのできる中で、最も高価な捧げ物、すなわちあなたの心を捧げなさい。(神のむすこ娘98)


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