60「愛の鞭」

 神の愛の象徴であり、また我等に必要な良薬は懲らしめである。神から懲らしめを受けないという事は隠し子であり神の子ではない事を証しするのである。(ヘブル12:5−10参照)試練は我等にとって祝福となるものである。だれもこの鞭を逃れる事はできない。ある石は宮の建築に使用するためにはあまりにも不恰好でその質が、粗雑であるために捨てられることがある。しかし選ばれた石はのみで削られて美しく有名なものに仕上げられるのである。であるから、我等を神に近づける全ての経験はむしろこれを歓迎すべきである。実に美しい刺繍もこれを裏から見る時には何の見栄えもしない。それと同じく我々に与えられるエホバの懲らしめもはなはだしく苦痛で、その意味を理解する事ができないけれども、もし我々が忠実であるなら、神の善き時において豊な報酬を得るのである。であるから我等は常に神のあわれみに信頼して勝利を獲得しようではないか。
 「熱心になって悔い改めよ。」これは我等の各自に対する直接の勧告である。神のあわれみに対して無頓着である事は大いなる罪である。そこには唯一の大いなる道があるだけである。我等は岩なるイエス・キリストの上におちて砕かれなければならない。感情によることなく、信仰によって出てきて、神の言われる事を信受すべきである。そして罪に対しては御心にかなう悲しみをなし、罪の許しとあわれみを乞い、贖い主であられるイエス・キリストの優しい御仲保にすがろうではないか。躊躇すべきではない。「今は恵の時」である。全霊を込めた熱烈な信仰と愛と熱心、要約すれば生きた経験を持つことを生命の主なるキリストは勧めておられるのである。

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