61「見よ、私は戸の外に立って、叩いている。」

 このような経験はキリストの内住によってのみ得られるのである。聖書にある無数の約束の中でラオデキヤに与えられたものほど尊いものはない。すなわち「見よ、私は戸の外に立って、叩いている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(黙示録3:20)。
 ここに神の御子が心の戸の外に立ち、彼の愛に満ちている熱心と礼儀正しくまた謙遜な態度で我等の心中に入る事を求めておられる有様が描かれている。全宇宙を支配し、神に反逆したこの地球を除く他界の全ての聖者たちの心中に宿られる全能なる神が我等の心の戸の側に立って待たれるとは、何という忍耐深い愛ではないか。彼は無理やりに入ったり、大声で入ることを要求されるような事をせず、静かに戸を叩いて忍耐深く待たれるのである。
 かつて一書家が戸の外に立っておられるイエスを描いたが、それは実に美しい絵であった。ある日彼の一友人はほれぼれとこのみごとな絵に見入っていたが、さも大きな発見でもしたように、「君、この戸には取っ手がないね」と言ったということであるが、実に心の戸も内側から開かなくてはこれをあけることはできないのである。我等は入ることを求められるイエスのノックに対して冷淡であってはならない。それは我等に対する唯一の望みである。なぜならばこのノックを聞いてもなお戸を開くことを拒む者は、ついには開くことができなくなるまで戸の内側にごみの山を積み重ね、戸を固く閉じてしまう様になるからである。このような魂は委縮し、キリストの与えられる生命のパンを食すことが出来ずに滅びてしまうのである。
 キリストはラオデキヤ時代の全ての魂に、否、我等各時代の魂に語られているのである。お互いに今という今、心の戸を開こうではないか。彼は我等の粗末な食物に代わる天の美食をもっておられる。それのみか我等の王の王なるキリストと交わる事ができるのである。イエス・キリストの再び来られる日の近い今日、我等は心の戸を開いて真の証人であられるイエス・キリストを歓迎しようではないか。

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