第二編第2章「至聖所に入る準備をせよ」

2章「至聖所に入る準備をせよ」

 「そして、天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた。また、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴と、地震とが起り、大粒の雹が降った。」―黙示録11:19
  
 前章に続きこの章でも第二天使の使命と経験について研究していこう。前章では第二天使の使命と個人的な経験について研究したが、今回は第二天使の使命と教会の経験について研究する。まず初代文集を読んでみよう。
 「預言は、第一天使の使命と第二天使の使命において成就した。これらのメッセージは、正しい時に発せられて、神が成し遂げようと計画された働きを成し遂げたのであった。」―初代文集p.401
 この証を見ると、神が第一天使と第二天使の使命を通して成し遂げようと計画された働きを知ることができる。それは何であろうか?私たちは神の計画を皆理解することは不可能であるが、与えられたみ言葉を通して示してくださった神の計画と働きを理解することは神の子らの特権である。再び初代文集を読んでみよう。
 「その時、わたしは、圧迫され嘲笑されている人々にむかって、『彼らと分離せよ、汚れたものに触れてはならない』と叫ぶ声を聞いた。」―初代文集p.397
 「すると彼らは、熱心に天を仰ぎ、天を指さして、『彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ』と答えるのであった 。わたしは、人々が、自由を求めて苦闘し、ついに、彼らを縛っていた綱を断ち切るのを見た。」―初代文集p.398
 神は第二天使の使命を通して御自分の真実な民を名目上のクリスチャンたちから分離させようと計画されたということを知ることができる。
 「神は、神の民が失望に出会うように計画された。定められた時は、経過した。そして、喜んで救い主を待望していた人々は、悲しみと失望に陥った。そして一方、イエスの来られるのを望んではいなかったが、恐怖心からメッセージを受け入れていた人々は、予期していた時に主が来られなかったことを喜んだ。彼らの告白は、心に何の影響も及ぼしておらず、生活を清めてもいなかった。時の経過は、このような人々の心を暴露するためのものであった。彼らは背き去り、救い主の出現を真に望んで悲しみと失望に陥っている人々を嘲笑した。神が、この試練の時に当たって、いったいだれがおじ恐れて離れ去って行くかを発見するために厳しいテストをお与えになって、神の民を試されたことは、神の知恵であったことを、わたしは見た。」―初代文集p.388
 世を愛する名目的クリスチャンたちは、真の民から分離した。なぜ主は分離が起こるように働かれたのであろうか?世の終わりまで麦と毒麦が共に存在すると言われた方がなぜ麦と毒麦を分離されたのであろうか?教会の中には麦と毒麦が世の終わりまで共存するのではないだろうか?
 神のご計画を知ることは神の民の特権である。選ばれた民であったとしても、公言だけで実際的にキリストに服従しなのなら、教会の中の少数の忠実な民に悪影響をおよぼし、分離が起きるのである。
 「キリスト者であると大声で主張していたが、ほとんどあらゆる点において、キリストに従っていなかったのである。サタンは、イエスの弟子と称する人々の状態に狂喜した。サタンは、彼らを、彼のわなに捕えていた。彼は、大部分の者を、まっすぐな道から離れさせていた。そして、彼らは、別の方法で天にのぼろうとしていた。天使たちは、純潔で聖なる人々が、シオンの中の罪人たちや、世俗を愛する偽善者たちと共にいるのを見た。天使たちは、イエスの真の弟子たちを保護していた。しかし、堕落した人々が、聖なる人々に影響を及ぼしていた 。」―初代文集p.404
 「わたしは、イエスが、彼の来臨を拒み軽べつした人々から顔をそむけられるのを見た。そして、イエスは、彼の民が汚れに染まないように、彼らを汚れた人々の中から連れ出すよう天使にお命じになった。メッセージに従った人々は、自由になり一致して立ち上がった。彼らの上には、聖なる光が輝いた。彼らは、世を捨て、地上の利益を犠牲にし、地 上の財産を捨てて、彼らの愛する贖い主に会うことを待望して、彼らの眼をひたすら天に 向けていた。彼らの顔には、聖なる光が輝き、彼らの心の中の平和と喜びとをあらわしていた。イエスは、彼らのところへ行って彼らを強めるよう天使にお命じになった。というのは、彼らの試練が迫っていたからである。」―初代文集p.408


分離の必然性


 神は第一天使の使命の経験のない者を第二天使の使命を通して分離させようと計画された。この働きをなすために天から力ある天使が送られ、使命を伝える御自分の民に大いなる力が与えられた。これは夜中の叫びであって、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」という叫びであった。この夜中の叫びによって1844年夏に約5万人の信徒が教会を脱会した。このように麦と毒麦を分離させられた神の目的について預言者は次のように記録した。
 「神の日に立ち得る民を準備するには、改革の大いなる働きが成し遂げられねばならなかった。神は、神の民と称する人々の多くが、永遠のために築いていないのを見られ、あわれみのうちに彼らに警告の使命を与えて、彼らを昏睡から目ざめさせ、主の再臨の準備をさせようとされた。
 この警告が、黙示録 14章に記されている。ここには、天使が宣言するといわれている三重の使命が書かれていて、すぐそれに続いて人の子が来られ、『地の穀物』を刈られる。」―各時代の大争闘上巻p.400
 最後に神の日に立つことのできる一つの民を準備させるために一つの大きな改革がなされなければならないと証されています。神の日のために一つの民が準備されなければならず、この働きは当時の教会の状態では成し遂げることができないということを主は見られたのである。汚い湿った倉庫の中では穀物は変質し腐ってしまうように、汚染した教会の中に真の民をそのままにしておくなら、不義な者によって純潔な者までが汚染されるからである。
 教会は真実な民の集まるところであるべきであったが、逆に真実な民が除名されることによって、天使は教会に向かってバビロンとなったことを宣言した。なぜ神の教会と呼ばれていた所がバビロンになることが可能なのだろうか?
 教会が永遠の福音である第一天使の使命を拒否したとき、教会は福音の力を失い、その結果教会は堕落し、倒れるしかない運命であるバビロンとなるのである。であるから分離は必然的なことであった。
 1844年当時真実な民は教会の状態を見て驚き、天を仰いだ時、「彼らの間から出て行き、汚れたものに触れてはならない。」「彼らと分離せよ。」と言う天の声を聞いたのである。そのようにして1844年夏に約5万人の信徒が教会を去ったのである。


一つの民が選ばれる


 神は第一天使の使命である永遠の福音を拒否した教会に御自分の使命を預けることができなかった。であるから教会が拒否してしまった使命を伝える他の民を探さなければならなかったのである。
 「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ」と言う使命は、第二天使を通して真の御自分の民に与えられた神のご計画であった。
 イスラエルの民はアブラハムの子孫であり、神の選民であるという誇りによってキリストを拒否した。同じように中世の暗黒時代に星のように光を輝かせた宗教改革者を先祖とした教会もその名を利用し、自分たちこそ神の教会であるという誇りの中、神の使命を拒否し、またその使命者たちを除名したのであった。しかし教会の主人であられる主のご計画は何であったのだろうか?
 「わたしは、イエスが、彼の来臨を拒み軽べつした人々から顔をそむけられるのを見た。そして、イエスは、彼の民が汚れに染まないように、彼らを汚れた人々の中から連れ出すよう天使にお命じになった。」―初代文集p.408
 私たちはこのような過去の歴史から教訓を得なければならない。もし過去の歴史の中から教訓を得ないならば、その歴史は繰り返されるであろう。教会に与えられた約束と特権だけを考えて神が教会をたてられた目的と使命を忘れるならば、彼らの歴史は私たちにも繰り返されるにちがいない。次のみ言葉はとても重要な教訓を与えている。
 「ユダヤ人はイスラエルに対する永遠の恩恵についての神の約束を誤解していた。『主はこう言われる、すなわち太陽を与えて昼の光とし、月と星とを定めて夜の光とし、海をかき立てて、その波を鳴りとどろかせる者―その名は万軍の主という。主は言われる、「もしこの定めがわたしの前ですたれてしまうなら、イスラエルの子孫もすたって、永久にわたしの前で民であることはできない。」主はこう言われる、「もし上の天を量ることができ、下の地の基を探ることができるなら、そのとき、わたしはイスラエルのすべての子孫をそのもろもろの行いのために捨て去る」と主は言われる』(エレミヤ31:35-37)。ユダヤ人は、自分たちがアブラハムの直系の子孫であるということがこの約束を受ける資格であると考えていた。しかし彼らは神が明示された条件を見落していた。」―各時代の希望上巻p.107
 「木の価値は、その名によってではなく、その実によってきまる。もし実が無価値なら、名はその木が滅びるのを救うことができない。ヨハネは、神の前におけるユダヤ人の立場は、彼らの品性と生活とによって決定されるのだと宣言した。口に言うだけでは無価値である。もしユダヤ人の品性と生活が神の律法に一致していなければ、彼らは神の民ではない。」―各時代の希望上巻p.109
 「パリサイ人は、自分たちはアブラハムの子であると宣言していた。この主張はアブラハムのわざをすることによってのみ立証できるのだと、イエスは彼らにお告げになった。アブラハムの真の子ならば、アブラハムと同じように、神に服従する生活を送るであろう。彼らは、神から与えられた真理を語っておられるお方を殺そうとはしないであろう。…アブラハム系図による子孫であるということだけでは、何の価値もなかった。アブラハムと同じ精神を持ち、同じわざをすることにあらわされる霊的関係がないならば、彼らは、アブラハムの子ではなかった。
 この原則は、長い間キリスト教界を騒がせた問題、すなわち使徒の継承という問題に同じように重大な関係がある。アブラハムの子孫ということは、名や血統によらず、品性が似ていることで証明された。同じように使徒の継承は、教会の権威を引き継ぐことにあるのではなくて、霊的な関係にあるのである。使徒たちの精神、彼らが教えた信念と真理の教えとを原動力とする生活―これが使徒の継承の真の証拠である。」―各時代の希望中巻p.256-257
 「イエスは、ユダヤ人がアブラハムの子であることを否定された。」―各時代の希望中巻p.257
 再臨信徒たちよ!この歴史から学ぶべき教訓があるのではないだろうか?私たちもイスラエルの民と同じように最後の時代の神の教会だという誇りを持っている。まただれがこの事を否定することができるだろうか?ダニエル書に書いてある真理と2300の夕と朝の預言を研究したことがあり、三天使の使命を信じているなら、その確信は否定することができない。
 しかしあなたが所属している教会が上記のみ言葉にふさわしい教会なのか、もしかして名前だけをもっているのではないのかを確認してみなければならない。
 人間の伝統と遺伝に従って彼らに与えられた約束と特権だけを考え、真理の源であられるキリストを拒否したユダヤ人と1844年当時の教会の前轍を踏まないためには、繰り返される歴史の中に真理の教訓を受けなければならない。
 「木の価値は、その名によってではなく、その実によってきまる。もし実が無価値なら、名はその木が滅びるのを救うことができない。…口に言うだけでは無価値である。もしユダヤ人の品性と生活が神の律法に一致していなければ、彼らは神の民ではない。」―各時代の希望上巻p.109
「というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、…」―ローマ2:28,29


戒めを守ることのできる位置に


 このようにして一つの時代を代表していた教会は捨てられ、新しい一つの体が誕生した。しかし新しく選ばれたこの民も神の御目にはまだ多くの試練を通してもっと清潔で純潔になるために訓練されなければならないものとして映っていた。人間の過ちと伝統を捨てて全的に神のみ言葉のみに信頼する完全な信仰がこの民に要求されていた。そのために彼らは再び厳しい試練を通らなければならなかった。
 第一天使と第二天使の使命によって失望したのはまさにこのためであった。
 「彼らは、誤りからまだ解放されていなかった。神は、恵みとあわれみをもって、地の住民に警告を発し、メッセージを繰り返し与えて、彼らに、熱心に心をさぐって、聖書を研究させ、異教徒やカトリック教徒から受けついで来た誤りを彼らが放棄するようになさったのである。」―初代文集p.408
 1844年当時の再臨信徒たちは第一天使の使命によって徹底的な悔い改めをし、新生の経験をし、第二天使の使命で完全に罪人と罪から分離することで清い聖化の生涯を経験するようになったのである。しかしこの全ての計画の中において徹底的な失望を経験しなければならなかったのである。
 「将来を見せず隠しておいて、神の民を決断の地点に導くことは、神の計画であった。キリストの再臨の明確な時を宣べ伝えずに、神が計画された働きを成し遂げることはできなかった。」―初代文集p.403
 神は御自分の僕らに知恵を与えられ、過ちを悟るようにされた。しかし「神は、彼らを試みようとしておられた。神は、彼らの預言の期間の計算の誤りを、手でおおわれた」と初代文集387ページに記録されている。なぜ愛する御自分の民にたいしてこのような試練を計画されたのであろうか?
 その理由の一つは、1844年再臨を伝えていた使命者たちが今日私たちが悟っているように1844年に起こるのはキリストの再臨でなく、イエスが聖所を清めるために天の至聖所に入られるという預言であると言うことを知ったならば、あのような徹底的な悔い改めの経験と罪と罪人から分離する経験が全世界的に起きなかったであろうということであう。彼らは1844年に起こる出来事はキリストの御再臨だと信じたので、あのような驚くべきことが起きたのである。それだから初代文集403ページに次のような証が与えられたのである。
 「キリストの再臨の明確な時を宣べ伝えずに、神が計画された働きを成し遂げることはできなかった。」―初代文集p.403
 天の聖所のきよめの働きが始まると同時にこの地上では個人的の経験だけではなく、一つの民としての心の聖所の働きが始められたのである。聖書で最も長い預言である2300の夕と朝の預言、「彼は言った、『2300の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する』」(ダニエル8:14)という預言開始の成就を見たのであった。
 「神は、これらのメッセージによって、神の大いなる力を彼らのために働かせることができるところへと彼らを導き、神のすべての戒めを彼らに守らせようとされたのである。」―初代文集p.408,409


至聖所の門を開かれる


 「いや、神は、約束されたことをみな成就された。イエスは、立って、天の聖所の聖所の門を閉じ、至聖所の門を開いて、聖所の清めを行うために、その中に入られた。忍耐して待つ者は、みな、神秘を理解するであろう。人間が間違ったのである。しかし、神の側には、なんの間違いもなかった。神の約束はみな成し遂げられた。しかし、人間は、この地が、預言的期間の終わりに清められる聖所であると、誤って信じた。誤っていたのは、神の約束ではなくて、人間の期待であった。」―初代文集p.409,410
 主はこの地に再臨される前にまだ天で終わらせるべき働きがあられた。彼が民の大祭司として天において民の罪を滅ぼし、聖所を清める働きであった。それだから1844年10月22日彼はこの地に来られるのでなく、聖所を清めるために天の至聖所に入られたのである。
 まるで弟子たちがイエスの復活された空の墓を見て失望した時、墓を守っていた天使たちが主は復活されてあなたよりも先にガリラヤへ行かれたと言ったように1844年10月22日イエスは民より先に至聖所に入られたのであった。なぜイエスは聖所の門を閉じられ至聖所の門を開かれた後でそこに入られたのだろうか?初代文集414ページの証は私たちに深刻な問題を提示している。
 「第三の天使は、『ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある』と言って、メッセージを終わっている。彼は、この言葉を繰り返したときに、天の聖所を指さした。このメッセージを信じるすべての者の心は、至聖所に向けられる。」―初代文集p.414
 神はモーセを通して建てられた地上の聖所を通して至聖所がどのようなところであるかを私たちに示された。至聖所には契約の箱がありその中には神が自ら書かれた二つの石がありその上には贖罪所がありまた二人のケルビムが神の律法を敬う姿勢で立っていた。そしてそこには神の栄光の光があって灯火がなかったが罪人には耐えることのできない光が臨在していた。
 至聖所は絶対に罪が許されないところである。もし罪のある人がそこに入るならば至聖所の栄光は罪人を消滅させてしまうところである。そこにわたしたちの主が1844年10月22日入られたのである。問題は何か?私たちも主に従って信仰によってそこに入らなければならないということである。
 再臨信徒たちよ!至聖所は罪が許されないと所であるということを覚えているであろうか。あなたは至聖所の栄光の前で消滅されることなく、生き残る者となることができるだろうか?私たちは神の栄光の前で死なずに生きていなければならない。なぜなら私たちも主に従って信仰によって至聖所に入らなければならないからである。私たちは至聖所で主にお会いしなければならない。主は至聖所におられるからである。そこは罪人を消滅させる神の栄光が御隣在する所である。第一天使と第二天使の使命を経験した者たちは信仰で至聖所に入ってイエスにお会いした。彼らは第一と第二天使の使命によって清められたからである。
 「わたしは、第三の天使が、上の方を指さして、失望した人々に、天の聖所の至聖所への道を示しているのを見た。信仰によって彼らが至聖所にはいるときに、彼らはイエスを見出して、新たな希望と喜びを味わうのである。」―初代文集p.415
 「 第三の天使は、彼らを至聖所に導いた。そして、過去のメッセージの経験を経た人々も、彼らを天の聖所へと指さしていた。多くの人々は、天使たちのメッセージの中に、完全な真理の連鎖を見、喜んでその順序に従って受け入れて、信仰によってイエスに従い、天の聖所にはいったのである。」―初代文集p.417
 神は至聖所の栄光を見ても死なずに生き残るものを数えておられる。彼らが144,000人である。至聖所の栄光、すなわち神の御臨在の前で死なずに生き残るものたちである。彼らに与えられる称号は文字通り「生き残る者」である。彼らがこの地における初めの救いの実なのである。三天使の使命を受けた再臨信徒たちよ、私たちがまさにこの、144,000人にならなければならないのである。
 神は至聖所の栄光の前で生き残る民をつくられるために第一天使と第二天使の使命をこの地に送られて清められた一つの民を作られようと計画されたのである。
 この偉大な働きは神の救いの計画の中で成就されねばならない明らかな事件であった。第一天使の使命で徹底的な悔い改めをするようにされ、第二天使の使命で罪と罪人から分離させて至聖所に入るのにふさわしい民になるように神は計画されたのである。今やご自分の民に大いなる力で臨在され、御自分のすべての戒めを守ることのできる位置すなわち至聖所の一つの民になるように計画されたのであった。


完全な分離


 第二天使の使命は罪人と罪の完全な分離を経験するように計画されている。
 「各地において、第二天使の使命の光が伝えられ、その叫びは、幾千という人々の心を感動させた。それは、町から町、村から村へと伝えられ、ついには神を待望している人々がみな覚醒した。多くの教会においては、メッセージを語ることが許されなかった。そして、生きたあかしをもった大群衆がこれらの堕落した教会を去った。」―初代文集p.392
 自分が属している教会が堕落したと言うことを発見した時、彼らはそこから分離して出てきた。彼らが分離して出てきた教会が初めから堕落した教会であったのだろうか?そうではない。
 そうならばなぜ堕落した教会を離れたと言うのであろうか?教会が堕落したという事の意味は何なのか?個人的な堕落については、たとえば酒を飲み放蕩な生活をして教会を離れるならば、私たちはその人に対して堕落したと言うことができるだろう。しかし教会の堕落はそれとは違うのである。
 教会が堕落したということは神の教会に与えられた光によってたてられた原則と標準に到達しない時、言い換えるのなら神の要求される原則や標準より低い標準で満足する時、その教会は堕落した教会となるのである。
 1844年神は御自分の教会を清い律法を守ることのできる高い位置に上げようとされた。聖所の門を閉められ、至聖所の門を開かれてそこにご自分の民を導かれるために第一と第二天使を送られたが、教会が使命を拒否することで彼らは堕落した教会となったのである。神は至聖所の標準を与えられたが、教会は聖所の庭と最初の部屋に留まることを望んだのであった。
 イエスは聖所の門を1844年に閉められ、至聖所に入られた。それでも聖所の最初の部屋に留まるのならその結果は何なのか?
 「わたしは、1844年の預言的期間が終了したときに天で何が起きたかを示された。イエスが、聖所における働きを終わり、その部屋の戸口を閉じられたときに、彼の再臨のメッセージを聞いてそれを拒んだ人々の上に、大いなる暗黒がたれこめた。そして、彼らは 、主を見失った。」―初代文集p.410
 「イエスが、天の聖所の聖所を出て、第二の幕の中にはいられてから、諸教会は、あらゆる汚れた、憎むべき鳥に満たされたのを、わたしは見た。わたしは、諸教会の中に、大いなる不法と不道徳を見た。それなのに、その教会員は、クリスチャンであると言っている。彼らの信仰の告白、彼らの祈り、彼らの勧告は、神の前に憎むべきものである。」―初代文集p.444
 1844年、いくつの教会が神の送られた二人の天使の使命を受け入れたのだろうか?悲しいことに全ての教会が拒否した。少数の真の民だけが受け入れ、彼らは自分たちの教会を捨てて分離した。神は彼らが捨てた教会を堕落した教会だと言明された。なぜならば神が求められた標準と教会の現実的な標準はその距離があまりにも遠く離れていたからであった。結果的に暗闇と汚れた憎むべき鳥の巣くつがその教会を覆ってしまったのであった。



主の再臨を待つ信徒たちよ!


 私たちが属している教会の現状はどうなのか探ってみよう。第二天使は今も天を飛んでいるからである。
 あなたの教会は第二天使の警告を受けなければならない立場にいるかも知らない。あなたは教会の名前が美しいので心配ないと考えるのであろうか?預言の霊を持っている教会だから安全な教会だと信じていないだろうか?
 自分の教会は7番目の最後の教会なのでこの教会意外に他の民が存在し得ないので最後までこの組織にいるならば救われると考えるのであろうか?
 またこの教会に与えられた約束と預言が確実なので教会の中にいればいつかは足りないものを満たしてくださるに違いないと安心していないであろうか?
 教会には麦と毒麦が世の終わりまで存在し、教会の堕落はただ時代的な徴にすぎないと言っているのではないのか?
 安息日を守りながらキリストとの関係だけは切らずに教会に忠実に出席するならば、144000人に入ることはできなくても、数え切れない群に入って救いを得ることができるなどと信じていないであろうか?
 自分は足りなくても、教会は確実に神の教会だという誇りにだまされ、救いの隊列に立っていると勘違いしていないだろうか?
 しかし一つの最も重要なことは、あなたが属している教会が至聖所にふさわしい標準を持っている教会か?ということである。もしそうでないならばそれは堕落した教会である。
 あなたの教会の牧師が至聖所にふさわしい真理と標準を説教し教えているだろうか?もしそうでないならばそれは堕落した教会である。
 あなたの教会の信徒は神の律法の明らかな教えに従い、至聖所にふさわしい信仰を所有しているだろうか?もしそうでないなら、それは堕落した教会である。
 あなたの教会の牧師が世を愛する信徒の好みに合わせるために、無難な事柄だけを説教し罪を指摘するような明らかな真理を隠してはいないであろうか?
 新しい信徒を得るためという理由で乳だけを飲み、かたい食物を消化することのできない弱い胃腸を持った教会ではないだろうか?
 このようにあなたの教会の原則と標準がだんだん低くなっているならば、あなたの教会は堕落した教会である。それだけでなく至聖所の時代である今日、至聖所の標準に及ばない教会は堕落した教会なのである。
 「セブンスデー・アドベンティスト教会は聖所のはかりにかけられるであろう。その教会は受けた特権と利点(advantage)によって裁かれるであろう。もしその教会の霊的経験がキリストの無限な代価で彼らに与えられた特権に一致しないならば、受けた祝福が彼に委託された働きを遂行する資格と一致しなかったならば、『その量の足りないことがあらわれた』と言う宣告が下されるであろう。与えられた光と受けた機会によって彼は裁かれるであろう。」8T p.247
 「天使は罪と罪人から分離される全ての人の額に一つの刻印を押し、滅ぼす天使がその後に従って老若を問わずに完全に滅ぼすであろう。」5TT p.505
 セブンスデー・アドベンティスト教会は至聖所のはかりによって審判されるであろう。私たちに与えられた特権と約束がいくら確実だとしてもそのすべてのものは条件的な約束であり特権であることを忘れてはならない。
 堕落した所から離れず、罪と罪人から分離しないならば、印を押されないまま毒麦と共に束にされるであろう。
 第二天使は今も中空を飛んでいる。    ・・・3章に続く。


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