第2章 14万4千人と律法の戦い

―獣とその偶像に勝利した人々―


 「またわたしは、火のまじったガラスの海のようなものを見た。そして、このガラスの海のそばに、獣とその像とその名の数字とにうち勝った人々が、神の立琴を手にして立っているのを見た。」―黙示録15:2


 「なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。」―黙示録14:1〜3
 上記の「獣とその像とその名の数字とにうち勝った人々」であるとのみ言葉は黙示録13章の預言を思い起こさせる。13章には獣とその像に礼拝しない者たちを皆殺せという命令、獣の印を額か右手に受けさせ、またこの印を受けない者は売り買いできないようにするという、人類の歴史上で最も大きな善悪の戦いが起きることが記録されている。しかしヨハネはこの大争闘で14万4千人が勝利者となることを記録している。黙示録7章にはこの人々は、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、・・・」(黙示録7:14)と記録されている。では14万4千人はどのような戦いから勝利した者たちなのだろう。どんな患難を通った者たちなのであろう。これが今日再臨信徒たちの学ばなければならない真理である。



最初の律法に対する戦い


 初めの戦いは天で始まったことが聖書に記録されている。「さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、・・・」(黙示録12:7)ミカエルであるキリストと龍に象徴されているサタンとの戦いが最初のものであった。創造主であるキリストと被造物であるサタンとの間でどのような戦いが可能なのだろうか。なぜならキリストはただそのみ言葉だけでサタンの存在を無にすることが可能だからである。この答えはサタンが天で戦いを起こした目的を知ることによって理解できる。「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』」(イザヤ14:12〜14)。
 サタンが戦いを起こした目的は神と同等になるためであった。しかし、サタンの目的は根本的には不可能なことが容易に理解できる。サタンでさえ、被造物が創造者と本質的に同等になれないのをよく知っていたのである。ではサタンが神と等しくなるためにはどんな方法があったのであろうか?どのようにしてサタンは自分の座を神のみ座に置くことを可能にしようとしたのであろうか。



律法に対するサタンの挑戦


 サタンはどのようにして神と同等になろうとしたのだろうか?
 「大争闘は、最初から神の律法に関して戦われたのである。サタンは、神は不正で、神の律法は不完全であるから、宇宙の幸福のためにそれを変更することが必要であることを証明しようとしてきた。彼は、律法を攻撃してその創始者の権威をくつがえそうとしていた。この争闘において、神の律法が不完全なもので、変更が必要であるか、それとも、完全で不変のものであるかが示されるのであった。」―人類のあけぼの上巻62ページ
 「法王制は、神の律法を変更することによってのみ、自らを神よりも高くすることができたのである。だれであっても、こうして変更された律法を、それと知りつつ守るならば、律法を変更した権力に最高の栄誉を帰していることになる。」―各時代の大争闘下巻166ページ
 神の律法を変更させることができれば、サタンは神と同等になることが可能であると考えた。サタンが神の律法に対して異議を唱えた。サタンの主張するように神の律法には誤りがあり、律法の変更が必要であったのなら、本質的には神と同等になるのは不可能でも、サタンの知恵が神よりも優れていることになる。であるから、サタンは神の造られた律法を変更することによって、神と同等になることが正当であると考えた。サタンは自分の目的を成就するために、神の律法に対する戦いを始めた。もし律法に誤りがあるということを証明できれば、サタンは勝利することができたのである。


サタンの主張―天には律法が必要か


 「天の住民を支配している律法によって不必要な束縛が加えられているとほのめかしながら、律法に対する不満の念を引き起こそうと努力した。天使たちの性質は聖なのだから、彼らは自分自身の意志の命令に従うべきであると彼は説いた。」―各時代の大争闘下巻232ページ
 「彼は、天使たちを支配していた律法に対する疑惑をほのめかし始めた。そして彼は、諸世界の住民にとって、律法は必要であろうが、天使たちは、彼らよりもすぐれたものであり、自分自身の知恵が十分な道しるべとなるから、こうした制限は不必要であると言った。彼らは、神のみ名を汚し得るものではない、その思想もすべて清いのである、神ご自身があやまりを犯すことがありえないと同様に、彼らもあやまちを犯すことはありえないと言うのであった。」―人類のあけぼの上巻7ページ
 サタンの主張の目的は、神の律法を無効にすることによって神の国を征服することであった。神の国にも律法が支配していたからである。
「愛の律法が神の統治の基礎であるから、すべての知的存在者の幸福は、その偉大な義の原則に彼らが完全に一致することにかかっている。」―人類のあけぼの上巻3ページ



律法に欠点がある?


 「大争闘は、最初から神の律法に関して戦われたのである。サタンは、神は不正で、神の律法は不完全であるから、宇宙の幸福のためにそれを変更することが必要であることを証明しようとしてきた。彼は、律法を攻撃してその創始者の権威をくつがえそうとしていた。この争闘において、神の律法が不完全なもので、変更が必要であるか、それとも、完全で不変のものであるかが示されるのであった。」―人類のあけぼの上巻62ページ
「自分は、神に完全な忠誠を尽くしていると言いながら、神の政府の安定のために、天の秩序と律法の変更が必要であると、彼は力説した。」―人類のあけぼの上巻8ページ
 神の律法は神の御品性である。であるから上記のようなサタンの主張は、神の御品性には欠点があるということになる。もしこれが事実ならば、神は欠点のある方で、サタンのほうが神よりも知恵があるということになる。これがどれほど恐ろしい欺瞞なのであろうか?
 「神の律法は、神ご自身と同様に、神聖なものである。それは、神の意志の啓示であり、神の品性の写し、神の愛と知恵の表現である。」―人類のあけぼの上巻38ページ
 「神の律法は、神ご自身と同様に神聖であるから、・・・」―人類のあけぼの上巻53ページ
 「律法は神の思想のあらわれである。キリストのうちにあって受け入れられる時、それはわれわれの思想となる。」―人類のあけぼの上巻13ページ


律法は服従することができない?


 「大争闘の始めに、サタンは、神の律法は従うことのできないものである、義と憐れみは両立しない、もし律法を破ったら罪人がゆるされることは不可能だと宣言した。」―各時代の希望下巻287ページ
 「サタンは、人間が神の戒めに従うことは不可能であると主張した。事実、自分の力では、わたしたちは戒めに従うことは不可能である。しかし、キリストは人間の形をとってこられて、人性に神性が結合する時、人は神の戒めのあらゆる点に従いうることを、その完全な従順によって立証なさった。」―キリストの実物教訓294ページ
 このサタンの主張がどれほど神を冒涜したものであろうか?神は愛である。守ることができない律法を守りなさいと命令するのなら、どのようにして神が愛でありえるのであろうか?律法を守ることができる力も与えずに、私達に守りなさいと命じたのであろうか。もしそうなら、サタンの方が神よりも愛に満ち、義であるから、神として認められ、栄光を受ける資格があることになる。・・・しかし、これは欺瞞である。
 「神は、だれかが従うことのできないような戒めをお与えになってはいない。」―各時代の希望上巻248ページ
 クリスチャンと公言する人々から、神の律法は守ることができないという話が聞かれる。第三天使の使命を信じるという人々からでさえこのような話が聞こえる。なんと深い暗闇が存在することだろう。あなたは今どちらの側に立っているのであろうか。
 「神の戒めに従わず、人々にもそうするように教える者は、キリストから罪を宣告される。救い主は律法に服従した一生によって、律法の要求を支持された。それは人性のうちにあっても律法を守ることができることを証明し、律法に従うことによって養われる品性のすばらしさを示した。キリストのように律法に従う者はみな同じように、律法が「聖であって、正しく、かつ善なるものである」ことを宣言しているのである(ローマ 7:12 )。一方、神の戒めを破る者はみな、律法が不正であって従うことのできないものであるというサタンの主張を支持しているのである。こうして彼らは大敵サタンの欺瞞の後おしをし、神をはずかしめる。彼らは神の律法に最初に反抗した悪者サタンの子らである。」―各時代の希望下巻287ページ


サタンの証明


 サタンは神の律法には誤りがあると主張する。もしそうなら、その誤りを彼はどのように証明できるのであろうか。もしそれができないとしたら、彼の主張は誤りである。サタンは、「神の律法は不完全であるから、宇宙の幸福のためにそれを変更することが必要であることを証明しようとしてきた」(人類のあけぼの上巻62ページ)。
 天で神の律法の誤りを証明することができなかったサタンは、この地上において、たやすくそれを証明することができた。それはアダムの罪によってであった。
「サタンは、神の律法が不公正で従うことのできないものであるという証拠として、アダムの罪を指摘していた。キリストは、われわれの人性をもって、アダムの失敗をあがなわれるのであった。」―各時代の希望上巻124ページ
 サタンは神の律法は、正義と憐れみが調和していないと主張した。
 「大争闘の始めに、サタンは、神の律法は従うことのできないものである、義と憐れみは両立しない、もし律法を破ったら罪人がゆるされることは不可能だと宣言した。」―各時代の希望下巻287ページ
 律法の正義とは何か。「罪を犯した魂は必ず死ぬ」ということである。「食べるときっと死ぬであろう」(創世記2:17)というみ言葉は、罪を犯したアダムが死ぬことによって成就される全く変更できない律法の正義である。アダムの死においてだけ律法の正義が成就されるのなら、憐れみはどのようになるのであろうか。憐れみが変更されたり、破棄されなければならないのであろうか。
 「主は彼の前を過ぎて宣べられた。『主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者。』」―出エジプト記34:6,7
 神の正義と憐れみは共存する。アダムの罪によって神の律法と品性がテストされた。天の基礎になる律法を立てるため、父なる神とみ子との間で会議が開かれた。「平和の一致」(ゼカリヤ6:13)である。「あわれみと正義」、どちらも汚されることなく、アダムの罪は処理され、同時に罪人に救いの道が開かれなければならなかった。


隠された奥義


 「平和の一致」の結果、「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」(創世記3:15)という宣言がなされた。
 罪を犯した人類のかわりに、女の子孫すなわち創造主であり律法の創設者であられる神のみ子が死ぬことによって、人類に救いが与えられるという福音が宣言された。
 「人類の救いが達成される唯一の計画は、その無限の犠牲に全天を包んだものであった。キリストが、贖罪の計画を示されたとき、天使たちは、喜ぶことができなかった。というのは、人間の救いのために、彼らの愛する司令官が言葉に表わせない苦悩をなめなければならないことを知ったからである。キリストが、天の純潔と平和、歓喜と栄光、そして、永遠の命を去って地に下り、堕落した人々と接し、悲しみと恥と死を経験しなければならないことを語られたとき、天使たちは、悲しみと驚きをもって彼の言葉に耳を傾けた。キリストは、罪人の仲保者として、罪の罰をお受けになるのであった。」―人類のあけぼの上巻54ページ
 律法の施与者なる神の御子の死によって、律法の正義は満足され、罪人にはもう一度、救いの機会が備えられた。十字架において正義と憐れみが出会った。神の御子が反逆した罪人のために死ぬということは、サタンだけでなく他世界の人々と天使たちにさえ理解できない愛であった。これは隠された奥義であったが、福音として宣布されたのである。
 「キリストの目的は正義と憐れみ、それぞれの性質を和解させ、それぞれの尊厳を守り、しかも両者を一つにすることであった。彼の憐れみは弱いものではなく、罪を罪であるがゆえに罰するおそるべき力があった。しかしそれは、人の愛を引き付ける力があった。キリストを通して、正義は高貴な神聖さを少しも損なわずにゆるすことができた。
 正義と憐れみはそれぞれ分離し、対立し、大きな淵によって隔てられていた。我々の救い主、主は、神性に人性をまとわれ、人として人のために、しみも傷もない品性を形成された。彼は彼の十字架を天と地の真ん中に立てられ、人々の注目の的とされた。そして義と憐れみの双方に手をさしのべて淵を越えられるように引き寄せた。正義はその高い御座から動き出し、天の全軍を率いて十字架に近づいた。そこで正義はあらゆる不義と罪を負い、刑罰を受けておられる神と等しいお方を見た。正義は十字架で完全に満足し、うやうやしく頭を垂れて、それで十分であると言うのであった。」―原稿94、1899年


人類はサタンの共労者


 禁断の実を食べたその結果についてアダムは良く知らされていた。食べると必ず死ぬという神の警告を思い出した時、「彼は、彼女と運命を共にする決心をした。彼女が死ななければならないならば、彼もいっしょに死のうと思った」(人類のあけぼの上巻45ページ)。
 彼は自分が禁断の実を食べるのなら必ず死ぬということを知っていた。自分の罪の報酬として自分の死をもって支払おうと思ったのである。であるから、彼は罪を犯した後、罪を自覚しなかった。今日の人々もアダムのような考えを持っている。人々は自分の死によって自分が犯した罪を解決できると思う。だから罪を犯すことにたいして大胆になっている。しかし、明確に理解しなければならないことは、死そのものによって、罪は解決されないということである。このように考えるということは、サタンから騙されているという証拠であり、アダムも騙されたのである。
 アダムが罪を犯した後、神はアダムのところに来られた。「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』(創世記3:9)。アダムは答えた。『・・・・わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです。』また神が質問された。『あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか。』『わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです。』アダムとエバの答えを見ると、彼らは完全にサタンの共労者になったということがわかる。サタンは神の律法には欠点があると主張した。アダムとエバの精神はサタンと一致したのである。アダムは自分の罪の責任をエバに、エバはへびに転嫁した。へびはだれが造られたのか。へびは神が造られたのである。だから罪の責任はへびを創造された 神が負わなければならないということになる。このようにしてアダムとエバはサタンの証人となったのである。
 「アダムは、自分の罪を否定し、言いわけをすることもできなかった。彼は、悔い改めの精神をあらわす代わりに、・・・・彼が、罪を犯した今は、罪の責任を妻ばかりでなく、創造主ご自身にまで負わせようとした。罪の力は、これほどに恐ろしいのである。・・・『どうしてあなたは、へびをお造りになったのですか。へびがエデンに入るのをどうしてお許しになったのですか』という質問が彼女の言いわけの真意であった。このようにして、彼女もアダムと同じく、彼らの堕落の責任を神のせいにした。」―人類のあけぼの上巻45,46ページ



贖罪の計画


 アダムは罪によって死ぬことを覚悟していたので、自分は神のみ前で罪人であるということを認めなかった。罪の責任は自分がとろうと思ったのである。神の憐れみは自分の罪を認めず、ただ言い訳だけするアダムに、救いの計画がどんなものかを教えてくださった。
 「神のみ子が、彼らの罪を贖うために、ご自身のいのちを提供されたのである。」―人類のあけぼの上巻58ページ
 アダムは自分ひとり死ねばそれで済むかもしれないが、サタンは神の律法に欠点があるということを、アダムが罪を犯したことを証拠として使い続けるようになる。アダムの子孫である私達はどうか。私達は死んで終わるかもしれないが、私達が犯した罪はサタンの食物となって永遠に利用されるのである。アダムは自分の罪が自分の死によって終わるのではないということがわかり、自分の犯した罪がどれほど大きなものか、またその結果神の御子が死ななければならないということを理解して恐れた。自分の罪が、創造主を死なせるのであるから、その罪がどれほど大きなものであるか理解するようになった。自分が許されない凶悪な犯罪者であるということを理解した。
 「アダムとエバの罪が要求した犠牲は、神の律法の神聖な性質を、彼らに明らかに示した。そして、彼らは、これまで感じたこともないほどに、罪のとがと罪の悲惨な結果とを知った。彼らは、後悔と苦悶のうちに、その刑罰が、彼の上に負わせられないように嘆願した。彼の愛こそ彼らのすべての喜びの源であった。むしろ、その罰が彼らと彼らの子孫の上にくだることを願った。」―人類のあけぼの上巻58ページ
 アダムはキリストの愛がすべての喜びの源であったので、彼が死ぬことよりも、その罰がアダムの子孫たちにくだることを願った。しかし、罪を犯してしまった今となっては、キリストの死によってのみ罪が解決されるということを理解した。
 「しかし、贖罪の計画は、人類の救済より、もっと広く深い目的をもっていた。キリストが地上に来られたのは、人間を救うためだけではなかった。この小さな世界の住民が、神の律法に対して当然払わなければならない尊敬を払うようになるためだけではなかった。それは、宇宙の前で、神の性質を擁護するためであった。」―人類のあけぼの上巻60ページ
 「この世界の住民が律法を正しく認識するようにするだけでなく、神の律法が不変なものであることを、宇宙の全世界に対して証明するためであった。律法の要求が廃止できるものであったら、神のみ子は罪を贖うためにご自分の生命をささげられる必要はなかったのである。キリストの死は、律法が不変であることを証明している。」―各時代の大争闘下巻241ページ
 天で始まった律法の戦いはアダムが罪を犯す前に全宇宙において関心をもたれていた。このような状況において犯された人類の罪は、サタンの主張を擁護することになった。救済の計画は人を救うこと以上にもっと深く広い目的がある。神の律法は完全であり、全く欠点がないという証が要求される。神の律法の写しである律法の完全さを証できるのはだれであろうか。堕落した人類の中には神の律法に服従できる人はいない。ただ神の御子だけが人間になられて証するしかなかった。であるからキリストは人間の救いのためだけに死なれたのではなく、人類の罪によって誤解された神の律法を擁護するために十字架にかかられたのである。



着せられた皮の服


 神の無限の憐れみは、アダムが受けなければならない苦しみと死を神の御子が受けるようにした。そうしてアダムには神の憐れみをうける道が開かれた。アダムは自分の罪に対してなんの言い訳もすることができなかった。許されることのできない罪人に与えられた神の憐れみに対して彼はただ感激するだけであった。救済の計画がアダムに示された後、神はアダムに将来のことを見せてくださった。子孫の堕落とノアの洪水、この地上に肉体と取ってこられるキリストの初臨、アダムの罪の身代わりとなって死なれる神のみ子イエス・キリストの姿まで見せてくださった。アダムはただで与えられる救済の恵みを感謝して受け入れた。その後に彼は一匹の羊を殺した。
 「こうして、エデンで神の宣告が与えられたときから、洪水のときまでと、そして、神のみ子の初臨までの歴史上の重大なできごとがアダムに示された。」―人類のあけぼの上巻59ページ

 「アダムにとって、最初の犠牲を捧げることは、非常に心の痛む儀式であった。彼は、神だけが与えることのできる生命を奪うために、手を振り上げなければならなかった。彼が死を見たのはこれが最初であった。もし彼が神に服従していたならば、人間も獣も死ぬことはなかったことを悟った。彼が罪のない犠牲を殺したとき、自分の罪のために、傷のない神の小羊の血を流さなければならないことを考えて、ふるえおののいた。神の愛するみ子の死によらなければ、償うことのできない自分の罪の大きさを、この光景は、さらに深くなまなましく彼に示した。」―人類のあけぼの上巻60ページ
 アダムは血を流しながら苦しみ死んでいく小羊を見ながら、自分の罪に対する言葉では表現できない後悔をもって神のみ前に謙遜になった。神はアダムの罪によってほふられた羊の皮を彼に着せてくださった。これが「信仰による義」である。アダムに何か功績があったのだろうか?彼には何の功績もなかった。ただ自分は許されることのできない罪人であるということと、自分の罪の許しのために神の御子が身代わりとなって死なれることを信じた。だからアダムは罪のない小羊を殺した。これが「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)という福音の宣言であった。神を愛さない人類に与えられた神の愛は人間が理解できない神秘である。「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」(創世記3:21)。



二回目の善悪の戦い


 天であったキリストとサタンの律法の戦いは、キリストの勝利で終わった。サタンは天における自分の場所を失い、地に落とされた。しかし、この地上でアダムを屈服させ、自分の場所を得た。サタンは人間を代理者として神に敵対させ、この地上を永遠に自分の王国にしようとした。「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ」、アダムが奪われた地上の支配権を回復なさろうとした。アダムの罪によって汚された神の律法の名誉を完全に回復するために、キリストが来られた。罪の中にいる人類を救うためにキリストがおいでになった。キリストは神性の栄光を捨てて、人性を取られた。サタンは神の御子が人性を取ってこの地上に来られることを喜んだ。なぜなら、罪のない人性をもっていたアダムを簡単に屈服させることができたので、罪ある人性を取ってこの世においでになるキリストをも簡単に屈服させることができるはずだと思った。
 「イエスが力と栄光をすてて天を去られた時、サタンはこおどりして喜んだ。彼はその時、神のみ子が自分の勢力の下におかれたと思った。彼はエデンの聖なる夫婦をたやすく誘惑することができたので、その悪魔的な能力とずるさによって、神のみ子まで倒して、自分の生命と王国を救いたいと望んだ。」―初代文集272ページ
 なぜキリストは神性を捨て、人性を取らねばならなかったのだろうか? 
 「キリストは、われわれの人性をもって、アダムの失敗をあがなわれるのであった。」―各時代の希望上巻124ページ
 サタンは神の律法に服従できない証拠としてアダムの罪を指摘した。だからキリストが地上に来られて、神の律法が服従できるものであるということを証明しなければならなかった。しかし、神性の力を利用して律法を守るのなら、それは証明にならない。キリストは必ず完全な人間になり、神の律法に服従することによって証明しなければならなかった。


私達と同じ肉体を取られた


 「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、」―ヘブル2:14
 「しかし、アダムが誘惑者から攻撃された時には、彼には罪の影響がすこしもなかった。彼は完全な人間としての力をもっていて、心もからだも活力に満ちていた。彼はエデンの栄光にとりかこまれ、天使たちと毎日交わっていた。イエスがサタンと争うために荒野へ入って行かれた時には、アダムの時のようではなかった。4000年間にわたって、人類は体力も知力も道徳価値も低下していた。しかもキリストは退歩した人類の弱さを身につけられた。こうすることによってのみキリストは人類を堕落の一番深い底から救うことがおできになるのであった。
 キリストが試みに負けることは不可能だったのだと主張する人が多い。もしそうなら、キリストはアダムの立場に置かれることはできなかったし、アダムが得られなかった勝利を得ることもおできにならなかったであろう。もしわれわれが何らかの意味でキリストよりもきびしい戦いをたたかわねばならないとしたら、キリストはわれわれを救うことがおできにならないであろう。だが救い主は、罪の負債ごと人性をおとりになった。彼は試みに負ける可能性のまま人間の性質をおとりになった。」―各時代の希望上巻124ページ
 キリストはアダムよりも不利な立場を取られた。彼はアダムの失敗を贖うために来られた。罪によって弱くなった人間の肉体を取り、サタンから受けるすべての試練に勝利することによって、人間に模範を示し、人間も同じように勝利することのできる希望を与えられた。
 キリストは私達を罪から救うことを求めておられる。罪から救うということは、私達も罪のない生涯が可能であるということである。その目的は罪が人間の生涯から終わる時、成就されるのである。罪は不法である。罪から勝利し、罪のない生涯を送るということは律法に完全に服従できたということである。
 サタンは人間には神の律法に完全に服従することは不可能であると主張してきた。しかし、キリストが人性をとってサタンの主張が偽りであることを証明し、最終的にサタンの欺瞞が全ての人々に暴露される。その時、宇宙の中の罪が消滅し、サタンは火によって裁かれる。
 私達はキリストが本当に人間と同じ人性を取ったということを信じなければならないし、キリストが勝利なさったように、私達も勝利の生涯が可能であることを感謝しなければならない。
 「アダムがエデンで罪を知らなかった時でさえ、神のみ子が人の性質をおとりになることは無限の屈辱に近かった。ところがイエスは、人類が4000年にわたる罪によって弱くなっていた時に人性をおとりになったのである。アダムのすべての子らと同じように、イエスは遺伝という大法則の作用の結果をお受けになった。そのような結果がどういうものであるかは、イエスのこの世の先祖たちの歴史に示されている。主は、われわれの苦悩と試みにあずかり、罪のない生活の模範をわれわれに示すために、このような遺伝をもっておいでになったのである。」―各時代の希望上巻35ページ


14万4千人の信仰


 「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」―ヘブル11:1
 あなたは何を望んでいるのであろうか?これはとても重要なことである。なぜなら信仰とは望んでいる事がらを確信することだからである。キリストの罪のない生涯、サタンに勝利された生涯が私達の望むべきことである。
 多くの人はキリストのような罪のない生涯は不可能であると言う。しかし、これは救いの計画を知らずにサタンからだまされている証拠である。
 「あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、」(第一ヨハネ4:2)。このみ言葉を見ると、人間に罪のない生涯が不可能ならば、キリストが私達と同じ肉体を取られたということに反対することになる。なぜなら聖書にはキリストが肉体を取って、罪のない生涯を送ったという記録があるからである。人々はキリストが神の御子であったから、罪のない生涯が可能であったと主張する。しかし、聖書は次のように記録している:「わたしは、自分からは何事もすることができない」(ヨハネ5:30)。
 「サタンは神の愛の律法を利己主義の律法であると言う。彼はわれわれがその戒めに従うことは不可能だと宣言する。人類の始祖アダムとエバが堕落してあらゆるわざわいが生じたことを、彼は創造主の責任にし、人々に神が罪と苦難と死の張本人であるかのように考えさせる。イエスはこの欺瞞をばくろされるのであった。イエスはわれわれ人間の一人として服従の模範を示されるのであった。このためにイエスはみずから人間の性質をとり、われわれと同じ経験をされた。『イエスは・・・・・・あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった』(ヘブル2:17 )。もしわれわれが、イエスの耐えられなかったことを耐えねばならないとしたら、サタンは、この点で、神の力はわれわれにとって十分ではないと言うだろう。そこでイエスは、『すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである』(ヘブル 4:15 )。イエスはわれわれの会うあらゆる試みに耐えられた。しかも彼はわれわれに自由に与えられていない力をご自分のためにお用いにならなかった。人間としてイエスは試みに会い、神から与えられた力で勝利された。『わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心の内にあります』と、主は言われる(詩篇 40:8 )。イエスが、よい働きをし、サタンに苦しめられているすべての者をいやしながらお歩きになったとき、彼は神の律法の性格と神への奉仕の本質とを人々に明らかにされた。イエスの一生は、われわれもまた神の律法に従うことができることを証明している。」―各時代の希望上巻9ページ


14万4千人の勝利


 神の律法に完全に服従できるということを証明する人はだれであろうか。神の律法は守ることができないというサタンの主張を永遠に沈黙させる人々はどこにいるのであろうか。モーセと小羊の歌を歌う14万4千人が証人である。14万4千人は獣とその像とその名の数に勝利した者であるということを記憶してもらいたい。世に勝利した者、サタンの力に勝利した者、神の律法を完全に守った者である。キリストの仲保の働きが終わったヤコブの悩みの間、この地上で信仰を守り律法に完全に服従し、神の律法の完全さを証明してサタンの主張を永遠に沈黙させるために、14万4千人が必要である。
 「第三天使の使命が閉じられると、もはや地の罪深い住民のための憐れみの嘆願はなされない。神の民はその働きを成し遂げたのである。・・・天使たちは、天をあちらこちらへと急ぎまわっている。一人の天使が地から戻ってきて、自分の働きが終わったことを告げる。すなわち、最後の試みが世界に臨み、神の戒めに忠実であることを示した者はみな、『生ける神の印』を受けたのである。・・・キリストはご自分の民のために贖いをなさり、彼らの罪を消し去られた。キリストの民の数は満たされ、・・・その恐ろしい時に、義人は仲保者なしに聖なる神のみ前に生きなければならない。」―各時代の大争闘下巻385,386ページ
 キリストの仲保と聖霊の助けなしに神の律法を守るということよりもっと完全な証明があるであろうか。この目的のために一つの民が選ばれたのである。彼らは三天使の使命によって「生ける神の印」を受ける民なのである。
 「次に、わたしは、第三天使を見た。わたしと一緒にいた天使は言った。『彼の任務は、恐るべき任務である。彼は、麦を天の倉に入れるために、麦を毒麦からよりわけて印をおし、たばねる。われわれは、こうしたことに全身全霊をかたむけ、すべての注意を向けなければならない。』」―初代文集221ページ
 「なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。」―黙示録14:1,3
 「またわたしは、火のまじったガラスの海のようなものを見た。そして、このガラスの海のそばに、獣とその像とその名の数字とにうち勝った人々が、神の立琴を手にして立っているのを見た。彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌って言った、『全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります。』」―黙示録15:2,3
 再臨信徒たちよ!獣とその名の数とに勝利し、小羊の新しい歌を歌う14万4千の特権を得ようではないか。
                                                                 ・・・3章に続く


「大争闘は、最初から神の律法に関して戦われたのである。サタンは、神は不正で、神の律法は不完全であるから、宇宙の幸福のためにそれを変更することが必要であることを証明しようとしてきた。彼は、律法を攻撃してその創始者の権威をくつがえそうとしていた。この争闘において、神の律法が不完全なもので、変更が必要であるか、それとも、完全で不変のものであるかが示されるのであった。」―人類のあけぼの上巻62ページ 

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