69「最高の崇敬」

 この四つの生き物は間断なく神を賛美してやむことはないとあるが、人類が神の意志に従う時に、そこには怠慢というようなことはないはずである。なぜなら、最高の喜びとすべき働きが限りなくあるからである。魂が罪と滅亡の中から神の栄光のために救い出された時に、そこにはいまだ人の耳に聞こえた事のないような荘厳な歌が響きわたるのである。その歌詞は単純なものであるが、その意義は深遠である。「聖なるかな聖なるかな聖なるかな、昔いまし、今いまし、やがて来たるべき主なる全能の神」と。このような賛美の歌は永遠にわたって、昼夜間断なく繰り返しても決して単調になる事はない。それはキリストが警告なされる異邦人の形式的な祈りにおける「繰り返し語」のようなものとは全くその類を異にし、一言ごとに全能者の全きご品性を新たに悟り、より深く感銘することのできるものである。このようにすることによって彼らの霊的視野はいよいよ開け、その心は広くなり、新しい立場から新しい崇敬の熱情が燃え、さらに高らかに「聖なるかな聖なるかな聖なるかな・・・全能の神」との賛美の歌を繰り返すようになるのである。
 そのように地上においても、神の恩恵、あわれみ、愛、真理の価値、来たらんとする御国に対する憧憬等のことについて幾たび語られても、それが我等の耳に陳腐なものとなってはならない。なぜなら我等は全生涯を通じてこれらの栄えある主題の中に包含された新たな恩恵を悟らなければならないからである。躊躇する者、また憶病な者は、勇気をだして真心をこめた単純な言葉をもって賛美の声をあげるべきである。神はこのような賛美を嘉されるのである。そしてそれは健全な勝利のクリスチャン生涯には欠くべきでないものである。口に言い表す事が深い感銘を与えるという事は心理学上の法則であるが、これは同時に霊的の事においても当てはめることができる。神は言葉が多いことによって喜ばれるのではないが、「心くだけて、へりくだる者」の真実の賛美を望まれるのである。「時にケルビムの翼の音が大能の神が語られる声のように外庭にまで聞えた」(エゼキエル)10:5。
 もし我等が罪悪に耽溺し滅亡に急いでいる全世界の喧噪と混沌と不秩序との中にあって、なおいにしえの預言者のように天よりの慰めの言葉を聞くことができるならば、これ以上の幸福はない。読者諸君、諸君は神のかすかな声を聞くであろうか。もし諸君が忠実であるならば、間もなく罪と死とに打ち勝った歌をもって、その賛美の声を高らかに上げることが出来るのである。
 彼等の賛美には少しの私心もなく、「世々限りなく生きておられるかたに、栄光とほまれとを帰し、また、感謝をささげ」た。その時四つの生き物および24人の長老によって代表された地より贖われ者とから、大いなる賛美の声が起こった。彼らが神聖な歓喜の頂点に達し、全能の神に最高の崇敬を捧げた時、各自「彼らの冠を御座のまえに、投げ出し」」たのであった。いまや彼らには神の限りなく尊い事がその賛美の主題となったのである。実に神は全宇宙と万物を創造された方であるから、最高の栄光と貴い権威とを受けられるのは当然である。そしてこの事実こそ全聖書の根底をなす大真理である。「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1:1)。真の科学はこれを教え、真の宗教もまたこの大真理を信じている。世の終末の現代において、悪魔は人心を神より遠ざけ、進化論の奇怪な学説に向けさせるのである。その学説たるや、聖書の平易な陳述と真の科学の原則および天の聖者たちの歓喜の声を否定しているものである。読者よ、聖書の神のみが諸君のために罪のない新しい心と、心の清い者の住む新天新地とを造りだす唯一な方であるので、聖書の神によって万物が創造されたという真理を信じようではないか。神が創造主であるという事実は、また全ての約束の成就を確証するところのものである。


聖なるかな聖なるかな聖なるかな  みつにいましてひとつなる
神の御名をばあさまだき        おきいでてこそほめまつれ


聖なるかな聖なるかな聖なるかな  神の御前にひじりらも
かむりをすててふしおがみ      みつかいたちもみなをほむ


聖なるかな聖なるかな聖なるかな  罪ある目には見えねども
みいつくしみのみちたれる       神のさかえぞたぐいなき


聖なるかな聖なるかな聖なるかな  みてのわざなるものみなは
みつにいましてひとつなる       神のおおみなほめまつらん

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