「輝き出る光」

  「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。」(イザヤ60:1)

 社交的な関係を通して、キリスト教は世の人々と接触するようになる。天来の光を受けた者はだれでもみな、いのちの光であられるキリストを知らない人々の道を照すのである。……社交的な能力は、キリストの恵みにきよめられて、魂を救い主にみちびくのに活用されなければならない。われわれは自分自身の利害問題に利己的に没頭しているのではなく、われわれの祝福と特権とを他人にわけ与えようと願っているのだということを、世の人々に見せよう。われわれの宗教はわれわれを非情にしたり苛酷(かこく)にしたりしないということを世の人々にわからせよう。キリストをみいだしたと言っている者はみな、キリストが人々を益するために働かれたように、奉仕しよう。
 われわれは、クリスチャンは暗い不幸な人たちだというまちがった印象を世の人々に与えるべきではない。もしわれわれの目がイエスにしっかりそそがれているならば、われわれはあわれみ深い救い主を見、そのみ顔の光をとらえるのである。神のみたまに支配されているところにはどこでも平安が宿る。神に対する落ち着いた、聖なる信頼があるので、そこにはまたよろこびがある。
 キリストに従う者たちが、人間ではあるけれども神の性質にあずかる者であることを示すとき、キリストはおよろこびになる。彼らは像ではなく、生きた男女である。彼らの心は神の恵みの露によって生き生きとなり、義の太陽キリストに向かって開き、成長するのである。彼らは自分たちを照している光を、キリストの愛に輝いている働きを通して、他人に反射する。(各時代の希望上巻178,179)
 聖徒や殉教者たちの行なった信仰の告白は、後の時代のために記録された。これらの人々の聖潔とゆるがぬ誠実の生きた模範は、今日神のための証人として立つように召された者たちを励ますために、語りつがれてきた。彼らが恵みと真理を受けたのは、自分たちのためだけでなく、彼らを通して、神の知識が地を輝かすためであった。神は、この時代の神のしもべたちに、光を与えておられるであろうか。それならば、彼らは世界にそれを輝かさなければならない。(各時代の大争闘下巻184)
 わたしたちは、主が世に光と恵みを送られる管となるべきである。……教会全体は、一つとなって行動し、完全な一致の内に調和して、聖霊によって動かされ支配された、生きた活動的な伝道機関となるべきである。……(教会への証8巻46,47)

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