「契約の血」

 「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神が、イエス・キリストによって、みこころにかなうことをわたしたちにして下さり、あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにこい願う。」(ヘブル13:20,21)

 旧約時代に、非常に多くの犠牲が要求されたことや血を流している多くの犠牲が祭壇に捧げられたことは、多くの人には神秘的な事であった。しかし、人々の前に掲げられ、心と思いに銘記させられた偉大な真理は、この「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」ということであった(ヘブル9:22)。血を流しているすべての犠牲は「世の罪を取り除く神の小羊」の象徴であった(ヨハネ1:29)。
 キリストご自身が、型と象徴で霊的な天の事柄を示していたユダヤの礼拝制度の創始者であられた。多くの者は、これらの捧げ物の真意を忘れ、キリストを通してのみ、罪のゆるしがあるという偉大な真理を見失った。多くの犠牲の捧げ物、牛や山羊の血は罪を取り去ることはできなかったのである。……
 キリストの血を通してのみ、罪のゆるしがあるという教訓が、あらゆる犠牲において具体化され、あらゆる儀式において印象づけられ、祭司の神聖な職務において厳かに語られ、そして、神ご自身によって教えられた。(SDAバイブル・コメンタリー7巻932,933)
 昔の信者たちも現在と同様、同じ救い主によって救われた。しかし、それは幕で覆われた神であった。彼らは象徴の内に神の憐れみを認めた。……キリストの犠牲は、ユダヤ社会全体に輝く約束の成就である。……罪なき捧げ物として、キリストが頭を垂れて死なれ、神殿の幕が見ることのできない全能者の手によって二つに裂かれた時、新しい命の道が開かれた。今やすべての者が、キリストの功績を通して神に近づくことができる。それは人が神に近づくことができるように、幕が裂けたからである。人は祭司や個人的な犠牲に頼る必要はない。すべての人々に、個人的な救い主を通して、神に直接近づく自由が与えられている。(同上932)
 思いと魂と心と力のすべては、神の御子の血によって買い取られたのである。(牧師への証130)

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