「天が危険にさらされた」

 「わたしは人を精金よりも、オフルのこがねよりも尊いものとする。」(イザヤ13:12英訳)

  いったい、だれが一人の魂の価値を評価できるであろうか。もしその価値を知りたいと思うならば、ゲッセマネへ行って、血の大きなしずくのような汗を流して苦しまれたキリストと苦悩を共にするとよい。そして、十字架にかけられた救い主を見ることである。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というあの絶望の叫びを聞き、傷ついた頭、刺された脇、さかれた足を見なければならない。そして、キリストは、ここですべてのものを失う危険を冒しておられたことを忘れてはならない。わたしたちの贖罪のために、天そのものが危機におちいったのである。十字架の下に立って、キリストはただ一人の罪人のためでさえ、その命をおすてになったのだということを考えるとき、始めて一人の魂の価値を正しく評価することができる。
 もし、あなたがキリストと親しく交わっていれば、どの人にも価値があることを認めるようになる。キリストがあなたに対していだかれたと同じ深い愛を、あなたも他の人びとにもいだくようになる。そうしてこそ始めて、キリストが身代わりになってなくなられた人びとを追いやるのではなくて、引きよせることができ、反感をいだかせるのではなくて、ひきつけることができる。もし、キリストが個人的に努力されなかったならば、だれ一人として、神に引きもどされるものはなかったことであろう。わたしたちが、魂を救うことができるのも、この個人的の働きによってである。このような滅びゆく人びとを見るときに、何知らぬ顔をして、じっと安んじているわけにはいかない。彼らの罪が大きく、みじめさが深刻であればあるだけ、彼らを回復させようとする努力も熱烈で、愛のこもったものとなることであろう。悩み苦しむ者や、神に罪を犯している者、または、罪の重荷に圧倒されている人びとに何をすべきかがわかるであろう。またあなたは、彼らに心から同情することができて、援助の手をさしのべるようになることであろう。(キリストの実物教訓176,177)
  キリスト、しかも十字架につけられたキリストが、わたしたちの思いの主題となり、魂の最も深い感動を起こさせなければならない。……十字架を通してのみ、わたしたちは人の魂の価値を正しく評価することができる。キリストがそのために死なれた人々の価値はそれほどのものであるので、御父は、人の贖いのためにご自身の御子を死に渡すことによって、人の救いのために支払う無限の価に満足される。ここでその完全さの中に、なんという知恵とあわれみ、愛があらわされていることであろうか。人の価値はカルバリーへ行くことによってのみわかる。キリストの十字架という奥義のうちに、わたしたちは人への評価をすることができる。(教会への証2巻634,635)
 堕落した人類の前に置かれた可能性は何と栄光に満ちたものであろうか。御子を通して、神は、人が到達することのできる最高をあらわされた。キリストの功績を通じて、人は自分の堕落から高められ、清められ、オフルのこがねよりも尊いものとされる。(彼を知るために134)

http://www.sda1888.com/
聖書のお話ブログ BIBLE STORY BLOG



 ブログ村ランキングに参加しております。
もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村