「天父の計り知れない犠牲」

 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(ヨハネ第一4:10)

 愛が行為の原則でなければならない。愛が、天地間の神の政府の基本的原則である。そして、これがクリスチャンの品性の基礎となるべきものである。……愛は、犠牲によってあらわされるものである。
 贖罪の計画は、犠牲によって立てられた。しかも、その犠牲とは、とうてい測ることができないほど広く深く高いものであった。キリストは、わたしたちのためにすべてをお与えになったのであるから、キリストを信じるものは、あがない主のために、喜んですべてを犠牲にするのである。また、キリストに誉れと栄光を帰することをまず第一のこととするようになるのである。(キリストの実物教訓26)
 アダムの罪が人類を絶望のどん底に陥れた時、神は人類との関係を断つこともおできになった。神は、罪人をそれに値するような扱いをすることもおできになった。神は、ご自分の怒りの杯をわたしたちの世界に注ぐように天使に命じることもおできになった。神は、この汚点を宇宙から消し去ることもできた。しかし、神はそうされなかった。ご自分の御前から彼らを消し去られる代わりに、このお方は人類にさらに近く近寄られた。このお方は、わたしたちの骨の骨、肉の肉になるために、ご自分の御子を送られた。……
 人への神の賜物は、はかり知ることができない。神が与えられなかったものは何一つない。神はご自分が何かもっとなすことが出来たとか、もっと大いなる愛を人類に示すことができたとか言われることを許されない。キリストという賜物のうちに、神は全天をお与えになった。(神のむすこ娘11)
 キリストを愛すると公言している者たちは、彼らと神との間に存在している関係を理解してこなかった。またそれはいまだにぼんやりとしか理解されていないのである。彼らは、世の救いのためにひとり子を与えられた神の驚くべき恵みをかすかにしか理解していないのである。(セレクテッド・メッセージ1巻134)
 人をご自分に結びつけ、人の救いを確実にするために、キリストは天の宮廷を去り地上に来られ、人の代わりに恥と罪の苦悩に耐えられ、人を自由にするために死なれた。人間の贖いのために払われた無限の値を考える時、キリストの御名を唱える者はこのお方の小さな者の一人をあえて無頓着に扱うことができるだろうか。……彼らは、どんなに忍耐深く、親切に、愛情深くキリストの血によって買い取られたものを扱わなければならないことであろう。(教会への証5巻614)

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