第3編 第2章 「天の至聖所に入りなさい」


 「第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、…天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた。また、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴と、地震とが起り、大粒の雹が降った。」黙示録11:15-19
 
 第三天使の使命はこの世の歴史の終わりのために準備された最後の使命である。これは主が聖所の奉仕を終えて天の至聖所に入られた後、御自分の民に至聖所に入ってくるようにとの特別な招待の使命である。そして第三天使の使命は最後の時代の神の民がみな経験しなければならない特別な経験を提示している。
 「イエスは、聖所における奉仕を終わり、至聖所に入って、神の律法を納めた箱の前に立たれた時に、世界に対する第三の使命をたずさえたもう一人の力強い天使を、お送りになった。天使の手には、羊皮紙が渡された。そして、彼は、力と威光とをもって地に下り、これまで人類に伝えられたことのない、恐怖すべき威嚇をもった恐るべき警告を発した。このメッセージは、神の民の前にある試みと苦悩の時を彼らに示して、彼らに用心させるためのものであった。『彼らは、獣とその像と激しく戦わなければならない。彼らが永遠の生命を得る唯一の希望は、堅く立つことである。彼らは、その生命が危機にひんしても、真理に固く立たなければならない』と天使は言った。第三の天使は、『ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある』と言って、メッセージを終わっている。彼は、この言葉を繰り返した時に、天の聖所を指さした。このメッセージを信じるすべての者の心は、至聖所に向けられる。イエスはそこで箱の前に立って、恵みがなお与えられているすべての人々と、知らずして神の戒めを破った人々のために最後の仲保をしておられるのである。この贖罪は、生きている義人とともに、死んだ義人のためにも行われる。これは、キリストを信じて死んだすべての人を含んでいるが、彼らは神の戒めに関する光を受けなかったために、知らずして戒めを破って罪を犯したのである。わたしは、第三の天使が、上の方を指さして、失望した人々に、天の聖所の至聖所への道を示しているのを見た。信仰によって彼らが至聖所に入る時に、彼らはイエスを見出して、新たな希望と喜びを味わうのである。」―初代文集p.414,415
 至聖所は罪が許されない所である。神の聖なる御臨在と栄光がある至聖所、清くないものと罪が許されない至聖所に1844年10月22日われらの主がお入りになられたのである。
 再臨信徒たちよ、主にお会いすることを望むだろうか?勿論そうであろう。しかしわれらの主は罪が許されない幕の向こう側、至聖所におられるという事実を記憶していなければならない。今こそ私たちは主にお会いするために罪が許されることのない至聖所に入らなければならないのである。

解決の鍵

 1844年10月22日の失望以後、再臨信徒の先駆者たちは失望から脱し、新しい光と真理を悟るようになった。その解決の鍵は聖所真理であった。
 1844年10月22日夜12時が過ぎたが、彼らの待っていた主は来られなかった。涙の夜を過ごしたハイラム・エドソンは再び勇気をふりしぼって、失望した仲間たちを励ましに行こうとしてとうもろこし畑を横切っていた。その時彼が天を眺めると、まるで幻かのように天が開け、天の聖所から至聖所に入られるイエスの姿を見たのであった。
 このようなハイラム・エドソン兄弟の経験は、当時の失望した兄弟たちの心を反転させ、希望と新しい光を発見するきっかけとなった。彼らは天の聖所と2300の夕と朝の預言を結び付けて研究することによって、1844年の失望の理由を悟るようになり、また新しい真理を発見し、驚くべき経験をするようになったのである。
 すなわち2300の夕と朝の終わりである1844年10月22日の聖所を清められるとの預言はイエスがこの世を清めるために来られる再臨ではなく、天にある聖所を清めるために聖所の最初の部屋の奉仕をおえて至聖所に入られて奉仕されるという新しい真理を悟るようになったのである。このような天にある聖所真理は全ての問題を解く鍵となり、また新しい真理を悟る鍵となったのである。
 今日においてもこの聖所真理はあらゆる不明瞭な問題を解く鍵であり、またこの世の全ての魂の運命に直接関係を持っている重要なものなのである。
 「天の聖所は、人類のためのキリストのお働きの中心そのものである。それは、地上に生存するすべての者に関係している。それは、贖罪の計画を明らかにし、われわれをまさに時の終わりへと至らせて、義と罪との戦いの最後の勝利を示してくれる。すべての者が、これらの問題を徹底的に研究し、彼らのうちにある望みについて説明を求める人に答えることができるようにすることは、何よりも重要なことである。」―各時代の大争闘下巻p.222
 「聖所問題が、1844年の失望の秘密を解くかぎであった。それは、互いに関連し調和する真理の全体系を明らかにし、神のみ手が大再臨運動を導いてきたことを示し、そして、神の民の立場と働きとをはっきりさせて、今なすべきことを明らかにした。」―各時代の大争闘下巻p.138
 「最後の奉仕がなされている天の聖所に神の民はいまや彼らの目をとめなければならない。主は天の至聖所で御自分の民のために仲保の働きをなされている。」―福音伝道p.223

サタンの憎む聖所真理

 このように失望に陥っていた先駆者たちの光となり、希望の道を開いた聖所真理が今日深刻な攻撃を受けている。それは天の聖所の真理は一つの象徴であり天には実際的な聖所がないというものである。
 サタンが現代の真理の鍵となる聖所真理を憎むのは当然なことかも知れない。なぜなら「天の聖所でなされている奉仕に関して正しく理解することはわれらの信仰の基礎となる」(福音伝道p.221〔書信p.208,1906年〕)からである。
 それだから魂の敵たちは天には聖所がないというサタンの偽りを伝えているのである。これはすでに主の預言者が預言したことであり、真理を愛する全ての信徒たちが共に排除しなければならない恐ろしい欺瞞である。
 「まもなくあらゆる種類の欺瞞が起き、我々にはしっかり立つことのできる堅い土台が要求される。また我々は建物のために丈夫な柱を望む。主が建てられたものは何一つでさえ移すことはできない。魂の敵は聖所はないという偽教理を引き入れるであろう。聖所の問題は、信仰から離れる者たちが疑問視する問題の一つとなるであろう。主が過去50余年の間われわれに与えられた真理意外のどこに安全な道を探すことができるであろうか?」―レビュー・アンド・ヘラルド1905年5月25日
 聖所真理は我々の信仰の基礎である。天の聖所は救いの計画の実際的な型であり天と地を結ぶ実際的な聖所である。聖所の庭はこの世であり聖所の最初の部屋と二番目の部屋である至聖所は天に実際的に存在する。主は外庭で捧げる信徒たちの祈りと讃美を天の内庭(聖所)で聞かれるのである。
 「この地すなわち外庭でキリストのために証する声を天の内庭で彼ら(天の知的存在者たち)は聞く。」―教会への証6巻p.366

聖所のすべてのものは実際的なものである

 「モーセは、『見たままの型にしたがって』地上の聖所を造った(使徒行伝7:44)。パウロは、それが完成されたとき、『幕屋と儀式用の器具いっさい』は『天にあるもののひな型』であったと述べている(ヘブル9:21)。ヨハネも天に聖所を見たと言っている。イエスが、われわれのために奉仕しておられるその聖所が本来のものであって、モーセの建てた聖所はその写しであった。」―人類のあけぼの上巻p.421
 罪人のために準備された小羊は世の罪を負われるキリストの象徴であり、捧げ者を神の御前に捧げる祭司もまた罪人のために仲保される実際的な大祭司であられるキリストの象徴であった。であるから象徴があるということはみな実体が実際的に存在しているということなのである。
 天の聖所の庭がこの世であるならば小羊が捧げ物としてささげられた実際的な燔祭の祭壇は神の小羊であれるイエスが死なれたカルバリーの十字架である。また祭司が聖所の最初の部屋に入る前に手を洗った洗盤の実体はイエスが天の聖所で奉仕を始めると共にこの地に注いでくださった前の雨の聖霊を意味する。このように全ての象徴は実際的なものである。
 今から約2000年前神の小羊であられるイエスカルバリーの十字架の燔祭の祭壇で汚れのない小羊として神に捧げられたのである。33年半の間人間として一度の失敗もなしに、しみと汚れのない生涯を送られ、全き捧げ物となられたのである。このすべてのことが実際的なことである。彼が人間になられ、我々に完全な模範の生涯を残してくださったことも実際的なことである。
 今は昇天されて私たちの大祭司となられ、約1810年のあいだ天の聖所の最初の部屋で奉仕され、1844年10月22日、いまや最初の部屋の聖所の奉仕を終えて至聖所に入られたが、これも実際的な出来事である。
 わたしたちの主の身分と奉仕する場所が変わることは救いの計画における重要な出来事であり、その時ごとにこの地の神の民にはとても重要な真理が公開され、その真理は全ての魂の運命を決める重要な使命となっているのである。

1844年キリストの身分と奉仕される場所が変わる

 われらの仲保者であられるキリストの身分と奉仕される場所が1844年変わったのである。奉仕なさる所が今は最初の部屋でなく二番目の部屋に移され、一般の祭司も入ることのできない至聖所に大祭司の身分として入られたのである。
 第三天使はイエスの奉仕される場所が至聖所であることを知らせているのである。それだから信徒たちがイエスにお会いするためには至聖所に入らなければならないということを悟ることはとても重要なことである。
 「しかし、第三の天使は、彼らを至聖所に導いた。そして、過去のメッセージの経験を経た人々も、彼らを天の聖所へと指さしていた。多くの人々は、天使たちのメッセージの中に、完全な真理の連鎖を見、喜んでその順序に従って受け入れて、信仰によってイエスに従い、天の聖所に入ったのである。」―初代文集p.417
 キリストの身分と奉仕される場所を無視、あるいは知らないということは致命的な危険をもたらすということを悟っているクリスチャンが多くはいないようである。キリストの仲保がなされる所が聖所の最初の部屋ではなく、至聖所であることを記憶しよう。キリストが去られた聖所の最初の部屋にとどまったままの民にどのようなことが起こったのかを預言者は幻を通してわたしたちに示している。
 「わたしは、父なる神が御座から立たれて、炎の車に乗って幕のなかの至聖所に入られ、お座りになるのを見た。それから、イエスが御座から立ち上がられた。そして、頭をたれていた人々の大部分が、彼とともに立ち上がった。…イエスが立たれた時に立った人々は、彼が御座を立って、彼らを少しばかり導き始められるのをじっと見つめていた。…その時火の炎のような輪がついた雲の車が、天使たちにかこまれて、イエスがおられるところに来た。彼は、その車に乗って、父なる神が座っておられる至聖所に入っていかれた。そこでわたしは、父なる神の前に立っておられる大祭司イエスを見た。彼の衣の縁には、鈴とざくろとがあった。イエスとともに立った人々は、至聖所のイエスを信仰をもって仰いで、『わが父よ、あなたの霊を与えてください』と祈るのであった。すると、イエスは、彼らに聖霊を注がれた。その息吹いぶきの中に、光と力、そして多くの愛と喜びと平和があった。」―初代文集p.125,126
 イエスの奉仕の場所が変わるとき、共に主に従っていった民はみな聖霊を受け、光と力、そして多くの愛と喜びと平和を得た。しかし不注意のために従っていかなかった民にはどのような事が起こったのかを読んでみよう。
 「わたしは、御座の前でまだ頭をたれている人々を見ようと思ってふりかえった。彼らは、イエスがそこを去られたことを知らなかった。サタンは御座のそばで、神の働きを行おうとするかのように見えた。わたしは、彼らが、御座を見上げて、『父よ、あなたの霊をお与え下さい』と祈るのを見た。するとサタンは、彼らに汚れた力を吹きこむのであった。それには、光と多くの力とがあった。しかし、あたたかな愛、喜び、平和はなかった。サタンの目的は、神の子供たちを欺いて、彼らを引きもどし、惑わすことであった。」―初代文集p.126,127
 どのようなことが起こったのだろうか?サタンが汚れ力を注いだのである。これは彼らに偽の霊が与えられたということである。実に恐ろしく、また驚くべきことではないだろうか?本人たちは偽の霊を受けたという事実を知ったのであろうか?いや、全く知らなかったのである。そこには力と光があり偽の平安を味わうことができたからである。
 この証によって、現代多くのプロテスタント教会で起こっている聖霊運動の正体を知ることができる。なぜそのようなことが起こっているのかというと、天の聖所の最初の部屋からキリストが去られているのに、それに気付かず、同じ場所で聖霊を求め続けているからである。彼らは偽の霊を受けているに、それを悟っていない。これはキリストに従って至聖所に入らない民(教会)に起こる悲しい出来事である。

信仰によって至聖所に入る経験をせよ

 「第三の天使が、上の方を指さして、失望した人々に、天の聖所の至聖所への道を示しているのを見た。信仰によって彼らが至聖所に入る時に、彼らはイエスを見出して、新たな希望と喜びを味わうのである。」―初代文集p.415
 再臨信徒たちよ!1844年再臨教会の先駆者たちは信仰によってイエスに従い至聖所に入り、イエスを見出したと書いてある。あなたはこの経験をしているだろうか?もしまだ至聖所に入る経験をしていないのなら、第三天使の使命を経験していないのである。
 あなたも、もし信仰によって至聖所に入りイエスに会う経験をしていないのなら、偽の霊を受けているかもしれないのである。第三天使の使命を信じると公言する多くの人たちが信仰によって至聖所に入るということの意味を知らず、そこでイエスにお会いするという経験をしていないのである。であるから至聖所で仲保の働きをなさっておられるキリストの恵みを得ていないのは明らかである。
 「この使命を本当に理解することが非常に大切だ。魂の運命は、この使命をどう受け入れるかにかかっている。…わたしはふたたび三重の使命を示され、神の民がどんなに高い代価を払ってその経験を得たかを示された。」―初代文集p.420
 「第一の使命を拒んだ者は、第二の使命からも益を受けることができなかった。 夜中の叫びによって、人々は信仰によって、イエスとともに天の聖所の至聖所に入る準備をなすべきであったが、その夜中の叫びも役には立たなかった。初めの二つの使命を拒んだために、理解力の暗くなった彼らは、至聖所に至る道を照らしている第三天使の光を見ることができなかった。…そのために彼らは、至聖所へ入る道を知らず、そこにおられるイエスの仲保の恵みを受けることができないことを、わたしは見た。」―初代文集p.423,424
 再臨信徒たちよ、われわれの主の仲保と恵みを受けたいと望まれるであろうか?もしそうであるなら、至聖所に入らなければならない。
 偽の霊から守られることを望むのであろうか?もしそうであるならば直ちに至聖所に入らなければならない。
 真の平和と喜びを得ることを望むのであろうか?もしそうであるならば主に従って天の至聖所に入らなければならない。
 光と聖霊の力が何であるかを経験することを望むであろうか?もしそうであるなら信仰によって至聖所に入らなければならない。このような祝福は至聖所に入る者だけに与えられる祝福なのである。

至聖所の信仰

 しかし至聖所に安易に入ることはできない。至聖所は罪を焼きつくす火であられる神の栄光の御臨在する所なのである。だからどんな人でもそこに入ることができるのではない。たった一つの罪でも持ったままそこに入るならば至聖所の栄光は焼きつくす火となるであろう。
 至聖所は完全な所である。それだから完全でない者はそこでは許されないのである。第三天使の使命を受け入れた至聖所の民の信仰は完全でなければならない。
 神の律法に完全に服従することは不可能であると信じている人にとって、天の至聖所は決して入ることはできない場所である。そのような人にとって至聖所の栄光は焼きつくす火となる。人間は決して罪のない生涯を送ることはできないという信仰を持っている者は至聖所に入ることはできない。もしそのような信仰を持って入ろうとするのなら至聖所の栄光は焼きつくす火となる。先天的後天的悪への傾向を克服することはできないという信仰を持って至聖所に入るならば、至聖所の栄光は焼きつくす火となるであろう。
 人間は決して完全になることができず、ただ最善をつくした後に足りない所を主が充たしてくださることで救われると信じるならば、至聖所の栄光は焼き尽くす火となる。なぜなら至聖所は完全を要求しているからである。不完全な信仰では至聖所に入れないのである。

完全な信仰が要求される

 至聖所は至聖所にふさわしい信仰を持った者だけが入ることのできる場所である。では至聖所にふさわしい信仰とはどのような信仰なのかをみ言葉から探してみよう。
 「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」―ローマ8:37
 「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」―ピリピ4:13
 そうである、私たちはみ約束を信じることによって、勝ち得てあまりある生涯を生きることができる。この信仰こそが至聖所にふさわしい信仰である。
 「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。」―テサロニケ第一5:23,24
 「もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。」―ヘブル9:13,14
 「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」―マタイ5:48
天の御父が完全であられるようにわたしたちをも完全にしてくださるという御約束を疑うことなく、真に信じるならば「平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて」下さるであろう。これがわたしたちの主の御約束であり、許しである。この御約束を仰ぐ者たちにはその信仰が事実として表されるであろう。これが至聖所の信仰である。
 やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するのに、なぜ創造主の血をかけられた良心がきよめられず、行動が変化されず、心をつくして神に仕えないのだろうか?

致命的な詭弁

 「口ではキリストを救い主として信じると言いながら、キリストが彼らに罪に打ち勝つ力をお与えになることを信じない。彼らは、生きた救い主と個人的接触がなく、彼らの品性は、先天的、および後天的欠陥を示している。」―キリストの実物教訓p.25
 「それだから彼は、欠陥に打ち勝つことは不可能であるという致命的な詭弁をもって、キリストに従う人々を欺こうと、いつもけんめいになっている。」―各時代の大争闘下巻p.223
 「イエスの中にはサタンの詭弁に応ずるものは何もなかった。イエスは罪に同意されなかった。一つの思いにおいてさえ、彼は試みに負けたまわなかった。われわれもそうなれるのである。キリストの人性は神性と結合していた。…しかもイエスはわれわれを神のご性質にあずかる者とするためにおいでになったのである。われわれが信仰によってキリストにつながっているかぎり、罪はわれらの上に権をとることはできない。神はわれわれが品性の完全に到達できるように、われらの中にある信仰の手を求め、それをみちびいてキリストの神性をしっかり把握させてくださるのである。…神のみことばの中にある約束はどれもみなわれわれのものである。」―各時代の希望上巻p.135
 「第一の使命を拒んだ者は、第二の使命からも益を受けることができなかった。 夜中の叫びによって、人々は信仰によって、イエスとともに天の聖所の至聖所に入る準備をなすべきであったが、その夜中の叫びも役には立たなかった。初めの二つの使命を拒んだために、理解力の暗くなった彼らは、至聖所に至る道を照らしている第三天使の光を見ることができなかった。…そのために彼らは、至聖所へ入る道を知らず、そこにおられるイエスの仲保の恵みを受けることができないことを、わたしは見た。」―初代文集423,424
 愛する再臨信徒たちよ!私たちはサタンの詭弁に陥ってはいないだろうか?もしそうであるなら私たちは至聖所で仲保されるキリストの恵みを受けられないであろう。至聖所の仲保による恵みを受けられないということは何を意味するのであろうか?
 至聖所でのキリストの仲保と聖所の最初の部屋での仲保の違いはなんだろうか?
 天の聖所の清めとこの地に住んでいる神の民とはどのような関係があるのだろうか?
 天の聖所の門を閉め至聖所の門を開いたと言うみ言葉の意味は何なのであろうか?
 「現代の真理の敵は、イエスが閉じられた聖所の門を開き、彼が1844年に開かれた至聖所の門を閉じようとしてきた」(初代文集p.107)と預言者は書いている。
 現代の真理の敵は、イエスが閉じられた聖所の門を開き、彼が1844年に開かれた至聖所の門を閉じようとしているという預言者の証は何の意味なのであろうか?この全ての質問を理解し至聖所に入るものはキリストの仲保の力が与えられるであろう。しかし至聖所の仲保を与えられないならば品性の完全は期待できないのである。完全を要求される時代に品性の完全をなすことができないならばその結果は何であろうか?
 「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」(創世記17:1)というみ言葉は現代の御自分の民に要求される主の招きであり命令である。
 再臨信徒たちよ、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」(創世記17:1)と言う招きにアーメンと言って答えようではないか!  ・・・3章に続く。

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