「ありのままの信仰によって受ける」

 「義人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:4)

 多くの人々は、彼らの特権であり義務である信仰を働かせることをせず、信仰だけがもたらし得る感情を待っていることがよくある。感情は信仰ではない。この二つのものは全く別のものである。信仰は、われわれが働かせるものであるが、喜ばしい感情と祝福は、神がお与えになるものである。神の恵みは、生きた信仰という通路を経て、魂に達する。そして、われわれは、その信仰を働かせることができるのである。
 真の信仰は、約束された祝福が、実現しそれを感じることができる前に、それをつかんで自分のものとする。われわれは信仰をもって、第二の幕の中に、われわれの願いをささげ、信仰によって、約束された祝福をつかみ、それを自分たちのものとして主張しなければならない。それから、われわれは、祝福を受けることを信じなければならない。なぜならば、信仰が祝福をつかんでいるのであって、み言葉にあるとおりに、それはわれわれのものだからである。「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)。ここに、われわれが祝福を受けたと感じる前に、受けることを信じる信仰、すなわち、真の信仰がある。……しかし、多くの人々は……聖霊の力を感じるのでなければ信仰を持つことができないと考えている。このような人々は、信仰と信仰によって与えられる祝福とを混同している。われわれが聖霊に欠けていることを感じる時こそ、信仰を働かせるべき時である。厚い黒雲が心を閉ざすように思われるそのときに、生きた信仰によって、暗黒をつらぬき、雲を散らさなければならない。真の信仰は、神のみ言葉の中に含まれた約束に基づいていて、そのみ言葉に従う者だけが、その輝かしい約束を自分のものにすることができる。(初代文集150-152)
 神がその子らの訴えにお答えにならないなどと考えて、神をはずかしめてよいものであろうか。……神ご自身の代理者である聖霊は、すべての賜物のうち最大のものである。すべての「良い物」はこの中に含まれている。創造者ご自身、これ以上大きなもの、これ以上良いものをお与えになることはできない。わたしたちが悩みのうちにあって、主に、わたしたちをあわれみ、聖霊によってお導きくださるように求める時、主は決してわたしたちの祈りを退けることはされない。(祝福の山164,165)
 わたしたちが受ける聖霊の量は、それに対するわたしたちの願いと働かせる信仰の量に比例している。……もしわたしたちが個人的に神のみ言葉を試すなら、確実に聖霊を受けることができるのである。(天国で336)

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