「わたしたちの疑いによって悲しまれる」

 「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。」(エペソ4:30)

 神の愛を疑い、神の約束に信頼しないならば、神をはずかしめ、聖霊を悲しませるのであります。……天の父も私どもにいのちを与えるためにひとり子を賜うたその愛を私どもが信じなかったならば、私どもを顧みたもうことができるでしょうか。使徒は「ご自身のみ子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、み子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」(ローマ8:32)と言っています。けれども、口で言わなくても、その行いで、「神は私にこう言っておられるのではない。多分、神はほかの人々を愛したもうかもしれないが、私を愛したもうているのではない」と言っている人がたくさんあります。(キリストへの道164,165)
 信仰は、神のみ言葉をそのまま受け入れ、自分の身に降りかかってきた辛い経験の意味を理解するために尋ねようとしない。しかし、信仰の薄い者が多くいる。……そして、何か困難に遭遇すると、神の御前に駆けつける代わりに、不安に駆られ、不平を言って神から離れる。
 彼らはそのように不信仰になることによって、何の益があるであろうか。イエスは彼らの友である。全天は彼らの幸福に関心を持っており、彼らの恐れと不平は聖霊を悲しませる。わたしたちが、神を見て感じることができるから信じるのではない。わたしたちはこのお方の約束に信頼すべきである。……わたしたちがこのお方の祝福を求める時、わたしたちはそれを受けることを信じて、それを持っていることをこのお方に感謝すべきである。その時、わたしたちはその祝福が最も必要な時に送られるということを確信して、自分たちの義務に取りかかるのである。(ゴスペル・ワーカー261)
 聖霊を悲しませることは深刻な事である。聖霊は人間が自分自身で働き、十字架が重すぎるから、また自己否定が大きすぎるからと言って、主の奉仕に入ることを拒む時、悲しまれるのである。聖霊は一人一人の魂に内住することを求められる。もし聖霊が名誉ある客として歓迎されるなら、それを受ける者はキリストにあって完全にされるであろう。(健康への勧告561)
 わたしたちは力をつくして、キリストにある男女の身の丈に到達するために全力をつくしているだろうか。わたしたちは彼に満ち満ちているもの、わたしたちの前に置かれた目標―キリストの品性の完全―を求めているであろうか。主の民がこの目標に到達する時、彼らはその魂に印されるのである。聖霊に満たされて、彼らはキリストにあって完全になり、記録の天使が、「完了した」と宣言する。(SDAバイブル・コメンタリー6巻1118)

http://www.sda1888.com/
聖書のお話ブログ BIBLE STORY BLOG



 ブログ村ランキングに参加しております。
もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村