「求める者たちのために」

「わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。」(レビ記11:44)

 神の徳をその子らにお与えになることは、神の栄光である。神は人々が最高の標準に達するのをご覧になりたいと望んでおられる。そして、信仰によってキリストの力をつかみ、主の確かなみ約束に訴えてそれを自分のものとして求め、拒まれないようしきりに聖霊の力を求めるならば、彼らはキリストにあってそれに満たされるのである。……
 キリストのようになる、すなわち、律法のあらゆる原則に従うというすばらしい可能性が、信者の前に提供されている。しかし、人は自分でこの状態に到達することは全くできない。人は救われる前にきよくならねばならないと神のみことばは言明しているが、このきよさは、彼が真理のみ霊の訓練や抑制する感化力に身を低くして従うときに、神の恵みが働いて生じるものである。キリストの義のかおりによってはじめて、人は完全に従順になることができる。キリストの義は従順な行為の一つ一つを神の香気で満たす。クリスチャンの役割は、一つ一つの罪に辛抱強くうち勝つことである。彼は罪に悩む自分の魂の乱れをいやしていただくように、救い主に絶えず祈らなければならない。彼にはうち勝つ知恵も力もない。これは主のもので、主は、謙遜に悔いて助けを求めてくる者たちにこれらを授けて下さる。(患難から栄光へ下巻230,232)
 聖霊はその力と恵みを求める人たちに与えられ、わたしたちが神に謁見する時、わたしたちの欠点を補ってくれるであろう。天はわたしたちの嘆願に対して開かれていて、我々は「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づ」くように招かれている(ヘブル4:16)。わたしたちは、このお方に求めるものをそのまま得ることを信じ、信仰を持って行くべきである。(天国で80)
 もしあなたが自分の魂の必要を感じるなら、もしあなたが義に飢えかわいているなら、それこそキリストがずっとあなたの心に働いておられる証拠である。それは主が聖霊の賜物を通して、あなたが自分ではすることができないことをあなたのためにしてくださるよう、あなたが主を求めるようになるためである。(祝福の山23,24)
 もしわたしたちが魂から自己をなくすなら、このお方がわたしたちのすべての必要を満たしてくださるであろう。(教会への証7巻213)

http://www.sda1888.com/
聖書のお話ブログ BIBLE STORY BLOG



 ブログ村ランキングに参加しております。
もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村