「毎日、どこでも」

 「すべての道で主を認めよ」(箴言3:6)

 聖書の宗教は、好きな時に身につけたり脱いだりすることのできる衣服のようなものではない。それは充満する影響であり、それはわたしたちが忍耐深くなり、自己否定的なキリストの弟子とし、このお方がされたように行い、このお方が歩かれたように歩くように導くのである。……
 もしあなたの同情と、慰めと憐れみの言葉を必要としている人が今まで一人もあなたのもとにいなかったとしたのならば、あなたはそのような尊い賜物を用いることを怠ったことについて、神の御前に責任はなかったであろう。しかし、キリストに従う者は皆、クリスチャンの親切と愛を示す機会を見出すのである。そうすることによって、彼はイエス・キリストの宗教を持っているということを証明するのである。
 この宗教は、わたしたちが厳しく不正な取り扱いを受けるような場所に置かれた時、忍耐と寛容を実践するように教える。……「悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである」(ペテロ第一3:9)。……キリストはののしられても、ののしり返されなかった。……このお方の宗教は、柔和としとやかな霊をもたらすのである。……
 聖書の宗教を行うに当たって、忍耐、寛容、自己否定、自己犠牲が絶えず必要とされている。しかし神のみ言葉がわたしたちの生活で不動の原則となるなら、わたしたちがしなければならないすべてのこと、すべての言葉、すべての些細な行為は、わたしたちがイエス・キリスト服従していることを明らかにする。……神のみ言葉が心に受け入れられるなら、それは心から自己満足と自己依存を無くすのである。聖霊が神の事柄でわたしたちの思いを満たすので、わたしたちの生活は善のための力となる。……
 わたしたちは、自分自身ではキリストの宗教を得ることも実践することもできない。わたしたちの心がよろずのものより偽るものだからである。しかし、イエスは……わたしたちがどのようにしたら罪から清められることができるかを示された。「わたしの恵みはあなたに対して十分である」(コリント第二12:9)とこのお方は仰せられる。わたしたちの信仰の創始者でありその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、わたしたちはこのお方のみ顔の光をつかみ、このお方のみかたちを反映し、キリスト・イエスにあって満ちみちた徳の高さにまで至るのである。わたしたちの宗教は、キリストの義の香りがするようになるので、魅力的なものになる。わたしたちの霊的飲食物がわたしたちにとって義と平和と喜びとなるので、わたしたちは幸福になる。(レビュー・アンド・ヘラルド1897年5月4日)

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