「信じる者に」

  「このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって」(ローマ4:16)

 「キリストの恵みが無くては、罪人は絶望的な状態にいる。彼のために何もすることができない。しかし神の恵みを通して、超自然的な力が与えられる。……与えられたキリストの恵みを通して、罪の憎むべき本質を認めることができ、ついに魂の宮から追い出されるのである。わたしたちが救いの働きにおいてこのお方とつながるために、キリストとの交わりに入れられるのは、恵みを通してである。信仰は、神が罪人に許しを約束するのをよしとされる条件である。救いを得ることのできる徳が信仰にあるからではなく、信仰が罪のために備えられた救済策であるキリストの功績をつかむからである。……
 『アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた』とある。いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである」(ローマ4:3-5)。義は律法に対する服従である。律法は義を要求し、罪人はこれを負債として律法に負っている。しかし彼はこれを支払うことができない。彼が義を得ることができるただ一つの方法は、信仰によることである。信仰によって彼は、神の所にキリストの功績を持っていく。すると主は、御子の従順を罪人の勘定書に入れられる。キリストの義が人間の過ちの代わりに受け入れられ、神は、悔い改めて信じている魂を許し、義とし、彼が義であったかのように扱い、御子を愛するように愛される。このようにして信仰は、義とみなされるのである。そして許された魂は、恵みから恵み、光からさらに大きな光へと進むのである。」(セレクテッド・メッセージ1巻366,367)
 「信仰の接触は、わたしたちに力と知恵の神の宝庫を開くのである。そのように土の器を通して、神は恵みの不思議を成し遂げられるのである。この生ける信仰は、今日わたしたちが大いに必要としているものである。わたしたちは、イエスが本当にわたしたちのものであるということ、またこのお方のみ霊がわたしたちの心を清め精錬するということを知らなくてはいけない。もしキリストに従う者たちが真の信仰を持っているなら、彼らは柔和と愛をもって、どんな働きを達成することができるだろうか。神の栄光のためにどんな実がみられることだろうか。」(今日のわたしの生涯13)

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