「世俗的な壮麗さではなく」

 「それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。」(コリント第一2:5)

 「イエスもまた……外見的にはでに仕事をなさるのでなく、なさけ深い自己犠牲の生活によって人の心に語り、そのみわざを果さなければならなかった。……
 キリストのしもべたちは世の光とならねばならないが、神は、光を輝かすように努力せよとは、命じておられない。神は、おのれのすぐれた善を誇示しようとするうぬぼれた努力をおよろこびにはならない。神は信者たちの心が、天の性質でみたされ、そのために、彼らが社会と接するとき心の中にある光が表われるようにと望んでおられる。生活のすべての行動にあらわれた不変の誠実さによって光は輝くのである。……
 どんなにりっぱであっても、世俗的なはなやかさは神の前に無価値である。神は目に見える一時的なものよりも、目にみえない永久的なものを尊ばれるのである。前者は後者を表現するときにのみ価値がある。最高の芸術品の美しさも心の中に働く聖霊の実である品性の美には比較にならない。……
 神の働きにおいて、人間の努力が有効となるかならぬかは、その働く人の清い信仰の程度いかんによる。すなわち生活を変化させるキリストの恵みの力をあらわすかどうかによるのである。わたしたちは世の人と異なっていなければならない。なぜならば神がご自分の印をわたしたちにおし、ご自身の愛の品性をわたしたちの身にあらわされるからである。救い主は彼の義をもってわたしたちをおおってくださるのである。
 神はその働きに人々をお選びになるとき、財産や、学識や雄弁等をおたずねにならない。ただ「わたしの方法を教えられる程謙そんに生活しているか。そのくちびるにわたしの言葉を語らせることができるか。彼らはわたしを代表するだろうか」とおたずねになる。神は、その霊を人の心の宮に多く入れることができればそれだけよくその人をお用いになることができる。神が承認される働きは、彼のみ姿を反映する働きである。彼に従う人々は社会に示す信認状として神の永遠に変らない原則的なご性質をもたねばならない。」(ミニストリー・オブ・ヒーリング17,18)
 「イエスはこの世の壮麗さの無価値を知っておられ、世の誇示に何の注意も払われなかった。魂の品格、気高い品性、原則の高潔さによって、このお方は世のむなしい流行を超越しておられた。」(セレクテッド・メッセージ1巻259,260)



http://www.sda1888.com/
聖書のお話ブログ BIBLE STORY BLOG
http://dailydevotion.jugem.jp/?eid=126



 ブログ村ランキングに参加しております。
もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村