「人生の競走のために」

 「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(ヘブル12:1,2)

 「ねたみ、悪意、邪推、悪口、貪欲などは、クリスチャンが永遠の命をめざす競走に勝利するために、捨て去らなければならない重荷である。われわれを罪におとしいれ、キリストのみ栄えを汚すような習慣や行為は、みな、どんな犠牲を払ってでも捨て去らなければならない。天の祝福は、正義の永遠の原則を犯している人に与えられることはない。一つの罪でも心に抱いているならば、品性を堕落させ、他の人々を誤った道におとしいれるのに十分なのである。……
 古代の競技の選手たちは、克己と厳しい訓練に服したからといって、必ず勝利を得るのではなかった。……競走者たちが、どんなに熱心に真剣に努力しても、賞は、ただひとりにしか与えられなかった。待望の栄冠を手にするのは、ただひとりだけであった。賞を得ようとして全力をつくし、まさにそれを手にしようとした瞬間に、他の者が彼らの前に現れて、熱望する宝物をさらってしまうこともあった。
 ところが、クリスチャンの戦いは、そのようなものではない。条件に従った者は、競走の終わりにおいて、だれひとりとして失望におちいることはない。真剣に耐え忍ぶ者は、ひとりとして失敗することはない。それは、いちばん速い者のための競走ではなく、いちばん強い者のための競争でもない。最も強い聖徒とともに最も弱い聖徒も、永遠の栄光の冠を受けるのである。すべて、神の恵みの力によって、自分たちの生活をキリストのみこころに一致させる者は、勝利するのである。……すべての行動は、人生の勝利か、または、敗北を決定する重みを持っている。そして勝利者に与えられる報賞は、彼らが努力する気力と真剣さに比例している。……
 パウロは、命のある限り、悪との戦いは終わらないことを知っていた。彼は、霊的熱心が世俗の欲望に負けることのないよう、常に自分をしっかりと守っておく必要を感じた。彼は全力をつくして、生来の傾向と戦い続けた。彼は、自分の到達すべき理想を常に目の前に置いた。そして、神の律法によろこんで従うことによってこの理想に到達しようとした。彼の言葉、彼の行為、彼の情熱は、みな、神の霊の支配下にあった。」(患難から栄光へ上巻336-339)

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