「勝ち得て余りがある」

 「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。……しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」(ローマ8:35-37)

 「神の僕は、この世から何の誉れも承認も受けることがない。ステパノはキリスト、十字架につけられたキリストを宣べ伝えたので石で打ち殺された。パウロは異邦人への神の忠実な使命者であったので、牢屋に入れられ、打たれ、石で打たれ、最後には殺された。使徒ヨハネは「神の言とイエスのあかしとのゆえに」パトモス島に追放された(黙示録1:9)。神の力の内にある人間の堅固さの実例は、神のみ約束の忠実さとこのお方の変わることの無いご臨在と人を支える恵みを証している。」(ゴスペル・ワーカー18)
 「イエスはこの世の栄光や富をめざしたり、試練のない生活ができるような希望を、主に従う者たちにお与えになったのではない。それどころか、イエスは彼らに、ご自分に従って克己と非難の道を歩むよう求めておられる。世をあがなうために来られたイエスは、悪の連合軍に反対された。……
 各時代にわたり、サタンは神の民を迫害してきた。彼は神の民を苦しめ、殺害してきたが、神の民は死ぬことで勝利者となった。彼らはサタンよりも偉大なかたの力をあかしした。悪人は肉体を苦しめ、殺すかもしれないが、キリストと共に神のうちに隠されているいのちに触れることはできない。悪人は人々を獄屋に監禁することができても、彼らの心を縛ることはできない。
 試練と迫害を通して神の栄光―神のご品性―が、その選民の中にあらわされる。世人に憎まれ迫害されるキリストの信者たちは、キリストの学校で教育され訓練される。地上にあっては、狭い道を歩き、苦難の炉で精錬される。彼らはきびしい戦いを通ってキリストに従い、克己に耐え、苦い失望を経験する。しかし、このようにして彼らは罪の罪深さと苦悩を知り、嫌悪の思いをもって罪を見るようになる。キリストの苦難に共にあずかるとき、彼らは暗黒のかなたに栄光を仰ぎ、「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」と、言うことができるのである(ローマ8:18)。」(患難から栄光へ下巻279-281)

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