「このお方はできる」

  「わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである。」(テモテ第二1:12)

 「使徒パウロは、不安と恐れを抱いてではなく、喜ばしい望みとあこがれの期待を持って、大いなるかなたをながめた。殉教の場に立っている彼には、執行人の刀も、間もなく自分の血を受けようとしている大地も目に入らない。彼は、…永遠の神のみ座を仰ぐ。
 この信仰の人は、天と地をつなぎ、また有限な人間を無限の神につないで下さったキリストを表わす、ヤコブの幻のはしごを見上げる。自分を支え慰めて下さるおかた、そして、自分がいのちをささげようとしているそのおかたを、父祖たちや預言者たちがどんなに深く信頼していたかを思い起こして、彼の信仰は強められる。各時代にわたって信仰のあかしを立ててきたこれらの聖徒たちから、パウロは、神が真実であられるという保証を聞く。パウロの仲間の使徒たちは、キリストの福音を宣べ伝えに出て行き、宗教的偏狭さや異教の迷信、迫害、軽蔑に会ったが、不信心の暗い迷路の真っただ中に、十字架の光を高く掲げることができれば、自分たちのいのちは惜しいとは思わなかった。これらの人々が、イエスを神のみ子、世の救い主としてあかししているのを、パウロは聞く。拷問台や火あぶりの柱、土牢から、地のほら穴から、殉教者の勝利の叫びがパウロの耳に聞こえてくる。彼は、忠実な人々が、たとえ欠乏しても、悩まされ苦しめられても、なお恐れなく厳粛に進行を証し、『わたしは自分の信じてきたかたを知って』いると言うのを聞く。……
 キリストの犠牲によってあがなわれ、その血によって罪からきよめられ、その義を着せられて、パウロは、自分の魂はあがない主の御目に尊いものだというあかしを持っている。彼の生命はキリストと共に神のうちに隠され、彼は、死を征服されたかたはご自分にゆだねられたものを守ることがおできになると確信している。」(患難から栄光へ下巻209-211)
 「わたしは、『わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである』と言って、わたしたちが自分たちの重荷をこのお方の足もとに置くために、信仰と謙遜によって神のもとに行き、わたしたちの魂がイエスとの密接な関係に入れられるまでこのお方に嘆願することができることを嬉しく思う。」(医事伝道203)

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