「良い行いはどうなのか」

 「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」(エペソ2:10)

 「我々が神に受け入れられることは、神の愛する御子を通してのみ確実となるのであり、善行は、罪をゆるす神の愛が働いている結果に過ぎない。善行は我々に何の手柄ももたらさない。我々の魂の救いに一役買ったと主張できるような善行を、我々は一切持ち合せていない。救いは、信じる者に与えられる神の無償の賜物であり、ただキリストのためだけに、その人に与えられるものである。悩める魂はキリストに対する信仰によって平安を見出すことができ、その平安は信仰と信頼に比例して与えられるであろう。その人は、自らの魂が救われる理由として自分の善行を提示することができない。
 しかし善行は無価値なものだろうか。とがめられることなく毎日罪を犯す罪人と、キリストに対する信仰によって高潔な行いをしようと努める人が、同じ好意をもって神に見なされるのだろうか。聖書が答えを与えている。「わたしたちは神の作品であって、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」。そのみ手のうちに、その限りない恵みによって、主は善行が報いられることをお定めになった。我々はキリストの功績を通してのみ受け入れられる。そして我々がなす慈悲の行い、愛の行為は、信仰の実であって、これらは我々にとって祝福となる。なぜなら、人はその仕業に応じて報いを受けるからである。我々の善行を神に受け入れられるものとするのは、キリストの功績の香りであり、彼が報いを与えて下さる業を行えるようにしてくれるのは、恵みなのである。我々の行為そのものに功績はない。我々がなし得る限りのことをすべて行った時、自らを無益な僕と考えるべきである。神に感謝される資格はない。我々は自分の義務を行っただけであり、自分の罪深い性質の力では行い得なかったのである。
 主はご自分に近づくよう我々に命じておられる。そうすれば、主が我々に近づいて下さるであろう。そして彼に近づけば、彼のみ手にあって報われるであろうこれらの行いによって、我々は恵みを受けるのである。」(SDAバイブル・コメンタリー5巻1122)
 「愛の労苦は信仰の働きから湧き出る。……我々の忙しい活動が自らの救いを確かなものにすることではないというのは真実であるが、キリストと結ばれた信仰は魂を活動に駆り立てるということもまた真実である。」」(SDAバイブル・コメンタリー6巻1111)

http://www.sda1888.com/
聖書のお話ブログ BIBLE STORY BLOG
http://dailydevotion.jugem.jp/?eid=126



 ブログ村ランキングに参加しております。
もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村