「キリストに学ぶ」

 「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」(マタイ11:29)

 「神なる教師のみ助けによってのみ、わたしたちは神のみ言葉の真理を理解することができる。キリストの学校でわたしたちは神のみ言葉の真理を理解することができる。キリストの学校でわたしたちはどのように柔和でへりくだった者になるかを学ぶ。信心の奥義をどのように理解するかを、このお方はわたしたちに教えて下さる。」(原稿99,1902年)
 「最高の教育を望む人々に、神は全身全霊を込めてご自分を求めるすべての者の近くにおられることを・・・学ばせなさい。
 人が神のご品性を知れば知るほど、謙遜になり、自分自身についての評価が低くなる。これが本当に神を見つめているという証拠であり、イエス・キリストと一致している証拠である。わたしたちが柔和でへりくだるまでは、神のご品性についていくらかでも概念を持っていると、真に主張することはできない。人は自分がすぐれた資質を持っていると考えるかもしれない。立派な才能、大いなる学識、雄弁、活動、熱心さなどは目をくらませ、空想を楽しませ、表面下のことを読み取ることのできない人々の賞賛を喚起することができる。しかし、へりくだりと謙遜がこれら他の賜物に結びついていない限り、優越感と自己賞賛が見られる。一つ一つの資質が主に捧げられていないかぎり、主が賜物を委ねられたその人々が、自分の資質を唯一神に受け入れられるものとする恵みを求めなければ、主にとって無駄な僕と・・・みなされる。『神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。』・・・心が溶かされ、屈伏する人々、神のご品性の栄光にみちた現れを見た人々は思慮のない推測をすることはない。彼らが神の驚くべき栄光について持っている意識の中で自己はなくなり、自分自身というものはまったく価値がなくなる。神と共に幸福な、また聖なる歩みをすることを重んじる者はみな・・・神の栄光を少しでもみるなら、果していないことを何ひとつそのままにしておくようなことはしない。どのような場合でも、どのような環境でも、彼らは神にお目にかかれることを許されるようにと祈る。彼らは神のみ言葉にふるえおののく柔和で悔恨の精神を大切にする。」(手紙87,1896年)

http://www.sda1888.com/
聖書のお話ブログ BIBLE STORY BLOG
http://dailydevotion.jugem.jp/?eid=126


 ブログ村ランキングに参加しております。
もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村