わたしのくびきは負いやすくその荷は軽いと教えてくださる

  「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。(マタイ11:30)

 「わたしたちはキリストと完全に一致することができるために、このお方のくびきを負わなければならない。『わたしのくびきを負』いなさいと言われる。・・・くびきを負うということは、有限な人間を神のいとしいひとり子と一体になることである。十字架を取り上げると、魂から自己を切り離し、キリストの重荷をどのように負うかを学ぶ場所に人を置く。わたしたちはキリストのくびき負わなければ、また十字架をかかげて、これを担わなければこの方に従うことはできない。もしわたしたちの意志が神のご要求と一致していないなら、自分の傾向を否定し、気に入っている願望をあきらめ、キリストのみ足の跡に踏み従わなければならない。・・・
 人は負うのに軽く、好ましいと思えるくびきを首にかけようと工夫するが、そのくびきはこの上なくいらだたしいものであることを立証する。キリストはこのことを知っておられ、『わたしのくびきを負いなさい』と仰せになる。あなたがたがぴったりと合うと考えて、自分の首にかけたいと思うくびきは、まったく合っていないのである。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、あなたがたにとって不可欠な教訓をわたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。主はご自分の嗣業に関して誤った評価をされることは決してない。ご自分と共に働いている者を量られる。彼らがご自分のくびきに屈伏するとき、自分自身のために、また神のみ働きのためになっていないあがきをあきらめるとき、平安と休息を見出す。彼らが自分自身の弱さに、また欠陥に気付くとき、神の御旨を行うことを喜ぶ。彼らはキリストのくびきに屈伏する。そのとき神は、しばしば人の思いによる計画とは正反対であるご自分のよしとされるみ旨を彼らの内に行うよう働かれる。天来の聖油がわたしたちに注がれるとき、わたしたちは、たえず魂に休息をもたらす柔和とへりくだりの教訓を学ぶ。(レビュー・アンド・ヘラルド1900年10月23日)
 「あなたに試練があるとしても、その試練をよく忍ぶなら、その道のりをより尊いものとするのである。」(教会への証1巻161)


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