祈祷週 「主は絶えず与えておられる」


 神は、全地がご自分のぶどう園であると主張なさる。たとえ今は横領者サタンの手の中にあるとはいっても、これは神の所有である。創造によると同時に贖罪によっても、これは神のものである。キリストの犠牲は世界のためになしとげられた。『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった』(ヨハネ3:16)。この賜物が一つ与えられたことによって、ほかのすべての賜物が人々に与えられるのである。全世界は、日毎に神の祝福を受けている。恩を忘れた人類にそそがれる一しずくの雨、ひとすじの日光、また一枚の葉、一つの花、一つの実など、その一つ一つは神の寛容とその偉大なる愛を証ししている。…
 神は、すべてのクリスチャンが、あらゆる面において、力量を増し、能率をあげることを求めておられる。キリストは、ご自身の血と苦悩という代価を、わたしたちのために支払われた。そして、わたしたちが、喜んで奉仕することを待っておられるのである。主は、わたしたちがどのように働き、またどのような精神で働くべきであるかの実例を示すために、この世界に来られた。また主は、どうすれば神の働きを前進させ、神のみ名の栄えになるかを、わたしたちが研究することを望んでおられる。『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである』とある。この父に、わたしたちの最高の愛と献身とをささげて、栄光を帰すことを研究するように、主は望んでおられる(ヨハネ3:16)。」―キリストの実物教訓p.280.281,305.
 「絶えず慈善を示すことで堕落した人類に神の御姿を回復させるという原則に基づいたものが福音の栄光である。この働きは天の中庭で始まった。そこで神は人類を紛れもない愛の証拠を与えられる対象とすることを決められた。」―健康に関する勧告p.222
 
施しと祝福

 「わたしたちは受けるよりも与えるほうがもっと祝福されることを憶えていなければならない。」―アドベンチスト・ホーム
p.474(英文)
 「使徒パウロは教会の奉仕において、新しい改心者たちの心に神のために大きなことをしたいという望みを起こすために、不休の努力をした。しばしば彼は、彼らに物惜しみしない心を表すようにと、たびたび勧告した。パウロはエペソの長老たちに、自分が以前に彼らの間で働いた時のことを語って言った。『わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また「受けるよりは与える方が、さいわいである」と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである』。彼はコリント人に次のように書いた。『わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。』(使徒行伝20:35, 第二コリント9:6,7)」―管理者への勧告p.171
 「キリストに従う者は、主にこのお方のものを返すことで自分が祝福を受けていると考える。なぜなら、彼らは天の宝を積み上げており、…贖われた魂、永遠に救われた魂を見る喜びは、『わたしについてきなさい』と仰せになったお方のみ足の跡に、自分の足を置くために障害に打ち勝った人々の特権である。」―天国でp.300

主は什一を要求される

 「主はご自分の什一を主の金庫に入れるように要求される。この分は、厳格に、正直に、忠実に、主にお返ししなければならない。この他にも主は、あなたのささげ物を要求される。だれも十分の一とささげ物を主にささげることを強制されない。しかし、主のみ言葉が確実にわれわれに与えられるように、主は、御自分の物に利子をつけて、すべての人の手から確実に求められる。もし神がご自身のものを神にささげるのに不忠実であったり、家つかさに対する神のご命令を無視したりするなら、人は、主から委ねられた祝福を、長く保つことはできないであろう。」―管理者への勧告p.82

什一は福音事業を支援するのに必須

 「神がイスラエルをご自分の特別な宝とするためにエジプトから救い出されたとき、神は幕屋の奉仕のために、彼らの持ち物の十分の一をささげるように教えられた。これは特別な働きのための特別なささげものであった。彼らの財産のうち残ったものはすべて神のもので、神のみ栄えのために用いられるのであった。しかし、十分の一は聖所で奉仕する人たちを支えるために聖別された。それは、すべての収入の初穂からささげられるのであって、諸献金と共に、当時の福音の奉仕を支えるために十分な資金となった。
 神は、昔、ご自分の民に要求されたのと同じ物をわれわれに要求される。われわれに与えられる神の賜物は、昔のイスラエルよりも少なくなく、むしろ多いのである。神の奉仕には、今も、これからも資金が必要である。救霊の大いなる伝道事業は前進しなければならない。諸献金と共に十分の一を通して、神はこの働きのために十分備えをなされたのである。福音の働きが十分支えられることが神のみ心である。神は十分の一をご自分のものとして要求されているので、それはみ業を益するために、み業の前進のための聖なる呼び資金として神の金庫に納められ、使命者たちを地の果てまで、『はるか遠い国々』へ送るために、用いられるべきものとみなさなければならない。」―管理者への勧告p.71

什一に関する不忠実は祝福を妨げる

 「忠実な十分の一は、主の分である。それを出さないことは、神から奪うことである。だれでも自由に進んで、喜んで、主の倉に十分の一とささげ物を持参しなければならない。なぜなら、そうすることに祝福があるからである。神ご自身の分を神に差し出さない時に、安全はない。(原稿159号1899年)
 十分の一は聖なる物として、神が御自分のために取っておかれた物である。それは福音のために働いている者たちを支えるために神の金庫に入れられるのである。十分の一が神の保留された部分であることを認識しなかったために、長い間人は神から盗んできた。…」―管理者への勧告p.93
 「兄弟姉妹方よ、神に忠実な十分の一を急いで持参し、心からの感謝の献金を持って来なさい。彼らが差し出さなかった十分の一を返すまでは、祝福が与えられない人たちが多い。神は、あなたたちが過去の償いをするのを待っておられる。聖なる律法の手は、神の恩恵を受ける全ての魂の上に置かれている。十分の一を差し出さなかった者は、正確に計算して、主のみ業から盗んだ物を主のもとに持って来なければならない。主にお返しして、和解の捧げ物をしなさい。『それを望まないなら、わたしの保護にたよって、わたしと和らぎをなせ、わたしと和らぎをなせ』(イザヤ27:5)。もしあなたが、主の金銭を間違って自分の物としたことを認め、心から全く悔い改めるならば、神はあなたの罪を赦してくださるであろう。」(『レビュー・アンド・ヘラルド』1910年12月10日)―管理者への勧告p.87

神は献金を要求される

 「神はこのように、イエスをわれわれにお与えになることによって、天の最大の富をお与えになった。彼のうちに豊かに楽しむすべての物を与えておられた。地の産物、豊かな収穫、金や銀の富は、神の賜物である。家や土地、食べ物や衣類を神は人の手に置かれた。神は、われわれが神をすべてのものの与え主として認めるように求め、そのため、私の倉に持ち込まれるべきささげ物の他に、あなたの所有のうち、私のために十分の一を留保すると言われる。これは神が、福音の働きをすすめるためにお備えになった方法である。」―管理者への勧告p.65
 「このささげるという問題は、衝動にまかされていない。神は、それについて具体的な指示をお与えになった。神は、十分の一と諸献金を、われわれの義務の秤とされた。神は、われわれが、規則正しく、組織的にささげるように望まれる。…各人は、神からの祝福である自分の収入を規則正しく調べて、十分の一を神に聖なる資金として取り分けねばならない。この資金は、どんなことがあっても、他の用途に当ててはならない。それは福音の牧師を支えるためにだけ充てるべきである。十分の一を取り分けた後、諸献金を『収入に応じて』割りあてるべきである。」―管理者への勧告p.80
 「神は十分の一の用途について、特別な指示をお与えになった。神は資金不足のために、み業が身動きできなくなることを計画されてはいない。いい加減な仕事や間違いがないように、神はこの点について、われわれの義務を非常にはっきりと示された。神が御自分のためにとっておかれた分を、神が指定された目的以外に流用してはならない。だれでも自分自身の判断によって、十分の一を保留してもかまわないと勝手に思ってはならない。十分の一を緊急の出費に当てたり、適当と思えるものに用いたり、あるいはまた、自分が主のみ業と思われることにさえ、用いてはならない。」―管理者への勧告p.101
 「あなたが収穫を集め、自分の安楽のために納屋と倉庫に貯えた時、あなたは忠実に十分の一を神にお返ししただろうか。あなたは神のみ業が困らないように諸献金を神に捧げただろうか。あなたは父のない子とやもめとを世話しただろうか。これは決して無視してはならない信徒伝道の一部門である。」―管理者への勧告p.46

伝道のために自ら捧げる

 「われわれの財産を整理し始める時が来ているのではないだろうか。天の銀行に投資するために、今、何かをすることのできるあなたを、神が助けてくださるように。われわれは借金を求めているのではなくて、自由意志の献金、すなわち、神があなたに貸し付けられた、神ご自身の財産の中から主にお返しする分を求めているのである。もし、あなたが神を最高に愛し、あなたの隣人をあなたと同じように愛しているなら、それは目に見える形で、伝道の働きのための自由意志の献金として表されるであろう。救われねばならない魂がある。そしてキリストが、ご自分の命をお与えになったこれらの魂を救うために、あなたが、イエス・キリストの共労者となるように、主は、あなたが主の栄光のために良い実を結ぶように祝福してくださるであろう。聖書の霊感をお与えになった同じ聖霊があなたの心を占領し、霊であり命である主のみ言葉を愛するようにしてくださるように、主のみ言葉が、あなたの目を開いて、神のみ霊に関する事柄を発見させてくださるように、今日このように信仰が衰えている理由は、人々が実際的な自己否定と自己犠牲を生活に持ち込んでいないからである。」―管理者への勧告p.46

国内と外国伝動のための捧げ物

 「神はご自分の民が自分たちの責任に目覚めるように呼びかけておられる。豊かな光がみ言葉から輝き出ている。そして、なおざりにされた義務は果たさなければならない。十分の一と諸献金において、自身の義務を果たす時、主が与えようと望んでおられる福音を世の人々が聞くために、道が開かれるのである。神の民が心の中に愛を持ち、教会員の一人ひとりが犠牲の精神を鼓舞されるとき、国内と外国の伝道に資金の不足はないであろう。われわれの財源は増え、多くの門戸が開かれ、入るようにと招かれるであろう。もし憐れみのメッセージを世に伝えるのに神の目的が遂行されていたら、キリストはすでにおいでになっており、聖徒たちは神の都に迎え入れられていたであろう。」―管理者への勧告p.36,37

貧しい者のための捧げ物

 「救いの真理の尊い光を伝えるために、自己犠牲を通してなされる貧しい者のささげ物は、神にとって芳しい香りとなって清められたささげ物として神に受け入れられるばかりでなく、ささげる行為そのものが、ささげる者の心を広げ、ますますこの世の救い主と一致するようにさせる。キリストは富めるお方であったが、われわれのために貧しくなられた。それは、キリストの貧しさによって、われわれが富める者となるためである。限られた収入しかない者が心からささげる小さな金額は、神に受け入れられ、それは神の御目には、何千ドルささげても自己犠牲を働かせず、欠乏も感じない富める人たちのささげ物よりもはるかに価値がある。」―管理者への勧告p.30
 「救いの真理の尊い光の拡張を助けるために貧しい人々が我慢してささげた献金は、神に対する芳しい香りで、清められ賜物として神が全面的に受け入れてくださるばかりではなく、ささげる人の心を拡げ、その人をこの世界の贖い主にいっそう完全に結びつけるのである。」―管理者への勧告p.347

第二の什一と分配

 「果樹園や田畑の収穫物であれ、家畜であれ、手や頭脳の仕事による収入であれ、あらゆる収入の十分の一を神に献納し、さらにまた第二の十分の一を貧民の救済やその他の慈善的な用途にあてることによって、人々は万物が神の所有であるという真理と、人は神の祝福をとりつぐ機会を与えられているという事実を、たえず心に新たに感じさせられた。それは偏狭な利己心を殺し、広い高潔な品性を養うための1つの訓練であった。」―教育p.38
 「貧者のために備えると同様に、人々が集会に集まることを奨励するために、すべての収入の第二の十分の一が要求された。第一の十分の一について、主は、『わたしはレビの子孫にはイスラエルにおいて、すべて十分の一を嗣業として与え』ると言われた(民数記18:21)。しかし、第二の十分の一については、次のようにお命じになった。『そしてあなたの神、主の前、すなわち主がその名を置くために選ばれる場所で、穀物と、ぶどう酒と、油との十分の一と、牛、羊のういごを食べ、こうして常にあなたの神、主を恐れることを学ばなければならない」(申命記14:23,14:29,16:11−14参照)。この十分の一、または、それと同額の金を二年の間、聖所が建てられたところに携えてくることになっていた。神に感謝の捧げ物を捧げ、祭司のために規定された分も捧げたあとで、献納者はその残りの部分を宗教的祭りに用い、レビ人、他国人、孤児、寡婦などを呼んで食べさせなければならなかった。こうして年ごとの祭りの時に、感謝の捧げ物をして、祭りを行う準備がされていて、人々は、祭司やレビ人との交わりに導かれ、神の奉仕について教えと励ましを受けることができた。ところが、三年目になるといつでもこの第二の十分の一は、『町のうちで彼らに飽きるほど食べさせ』とモーセが言ったように、レビ人や貧者を、家庭でもてなすことになっていた(申命記26:12)。この十分の一は、慈善ともてなしの資金を提供した。」―人類のあけぼの下巻p.166,168

忠実さを教える責任のある兄弟

 「主の使命者は、神のご要求が教会員によって忠実に果たされるように気をつけなければならない。神は、御自分の倉に食物がなくてはならないと言われる。もし神の金庫の金に手をつけたり、個人が十分の一を好きなことに用いる権利があるとみなしたりするならば、神は祝福することがおできにならない。神は、神の物を好きなように用いることができると考える人を指示されない。
 この重要な問題について人々を教え、物事を正しくすることが、長老たちと役員の義務である。教会役員は、神と共に働く働き人として、このはっきり表されている問題についてしっかりとしていなければならない。牧師自身が、神のみ言葉の命令を字義通りに厳しく実行しなければならない。教会内で信任の地位にある人たちは、怠慢であることなく、教会員がこの義務を忠実に果たすように気を配らなければならない。…教会の長老と役員たちは、聖なるみ言葉の命令に従い、約束献金、十分の一を、そして諸献金を忠実にささげる必要性を教会員に訴えねばならない。」―管理者への勧告p.106,107

全ての祝福を積むところが不足である

 「神は、人々を神の管理者になさった。神が人々の手にお任せになった財産は、福音を広く伝えるために神がお備えになった資金である。忠実なしもべには、もっと大きな責任が神から負わせられる。『わたしを尊ぶ者を、わたしは尊』ぶと主は言われる(サムエル記上2:30)。『神は喜んで施す人を愛して下さるのである』。そして神の民が、『惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく』感謝して供え物や捧げ物を神のところに携えて来るとき、神が約束なさったように、神の祝福がそれに伴うのである(Ⅱコリント9:7)。『わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる』(マラキ3:10)。」―人類のあけぼの下巻p.165
 「クリスチャンの慈善心は、それを働かせる時、強められ、不必要に刺激する必要はない。この精神すなわちキリストの精神を持っている者は、明るく気軽に、そのささげ物を主の倉に持ち込むのである。キリストと、キリストがそのために死なれた魂に対する愛に目覚めて、彼らは忠実に自分の立場を尽くそうとする熱意を感じるのである。」―管理者への勧告p.30
 「神のその他の要求もみな同じである。神がお与えになる賜物は、みな服従が条件となっている。神は神と力を合わせるもののために、あふれる祝福を天に備えておられる。神に従う者は、すべて、確信をもって、神の約束の成就を求めることができるのである。」―キリストの実物教訓p.122
アーメン