「時」

 「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(伝道の書3:11)

 時はあらゆる人間に責任をもたらす。そして青年は、神が彼らに行うようにと与えておられる働きを成就することに思いと身体の能力を用いるべきである。彼らは主人であるお方の奉仕で善を行うことに毎時間を用いるようにと要求されている。過ぎ行く一日一日はわたしたちの魂が愛するお方にお会いするその時へとわたしたちを近づけている。この現在のかなたに永遠の未来がある。今はちょうどテストと試練のときである。今は恵みの種まきと実りの収穫のときである。時は非常に尊い。日々、各週は一年を構成しており、その日々が過ぎると、未来の生涯への準備に一日、一週間、一ヶ月が減っていっている。しかし幾千もの人々が、尊い時間をあたかも価値のないものであるかのように不注意に、うかうかと無関心に、責任を担う必要も感じず、ぐずぐずと過ごしている。この娯楽や、この小旅行で、時が過ぎていくと彼らは言う。しかし、人生とは、そういうものではない。時は神に申し開きをしなければならないクラントである。(レビュー・アンド・ヘラルド1899年1月10日)
 キリストは「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」と命令しておられる。幾千の人が日々、飢饉、流血、火災、疫病のために滅んでいっている今日、同胞を愛する者は、その益となるように心がけ何一つ、むだにしたり、不必要に使用したりしないのが当然である。
 むだに時間を使うことも、むだに考えることも不正である。また自分の利益のためにだけ時を費すことは、その時間をすべて失うことになる。一刻一刻を尊び、これを正しく用いるならば、自分にとっても、社会にとっても、なさねばならないことにすべて時間があるはずである。金銭を費すとき、あるいは時間、体力、機会を使用する場合、すべてクリスチャンは神に指導を仰がなければならない。「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人はとがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい」(ヤコブI:5)。(ミニストリー・オブ・ヒーリング185)


http://www.sda1888.com/
聖書のお話ブログ BIBLE STORY BLOG
http://dailydevotion.jugem.jp/?eid=126


 ブログ村ランキングに参加しております。
もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村