「清め」

  「ヒソプをもつて、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしよう。わたしを洗つてください。わたしは雪よりも自くなるでしよう。」(詩篇51:7)


 わたしたちは罪人である。過去の罪をあがなうことも、自分の心を変えることも自分自身をきよくすることもできない。しかし神は、こうしたことをすべてキリストを通してしてくださると約束なさつた。あなたはまずそのみ約束を信じ、罪を告白し、自らを神にささげて、神に仕えようと決心しなければならない。これを実行しさえすれば必ず神はそのみ約束を果してくださるのである。神のみ約束を疑わず、ゆるされ、きよめられたと信じさえすれば、神はそれを事実としてくださるのである。中風の病人がいやされたことを信じたとき、キリストが歩く力をお与えになつたと同じようにあなたはいやされるのである。信ずるごとくになるのである。

 いやされたと感じるまで待つてはならない。そして「信じます。いやされています。わたしがそう感じるからではなく、神がこれを約束されたからです」と言おう。
 イエスは「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)と仰せになったが、このみ約束には条件が一つある。それは神のみ旨に従つて祈るということである。けれども、わたしたちの罪をきよめ、神の子らとしてきよい生活を送らせようとなさるのは神のみこころである。であるから、これらの祝福を願い求め、それを受けたと信じて神に感謝してもよいのである。イエスのもとにきてきよめられ、恥ずるところなくおきての前に立つことができるのはわたしたちの特権である。聖書にも「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。…。これは…肉によらず霊によつて歩く」(ローマ8:1、4)とある。
 であるから、わたしたちは自分のものではなく、価をもって買われたものである。「あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである」(第一ペテロ1:18、19)とある。神を信ずるこの簡単な行為によつて、聖霊はわたしたちの心に新しいいのちをお与えになる。わたしたちは神の家族の子供として生れたのである。であるから、神はみ子を愛したもうと同様にわたしたちを愛してくださるのである。」(キリストへの道65〜67)


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