「告白の祝福」

  「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、彼は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(ヨハネ第-1:9英語訳)

 自分の罪を認めて神の前にへりくだらない者は、神に受け入れられる最初の条件さえ果していないわけである。わたしたちが過去の罪のゆるしを味わっていない、ただ一つの理由は、心を卑くして真理のみ言葉の条件に従っていないからで、この点について次のようにはっきりと教えられている。罪の告白は、それが公のものであっても、個人的のものであっても、真心からのものであって、十分に言い表わされなければならない。罪人に無理にしいて言わせるものではない。また、告白は軽率に不注意になされてはならない。ほんとうに、罪がどんなにいまわしいものであるかを認めていない人にしいるものでもない。心の奥底からわき出てきた告白は、限りないあわれみを持ちたもう神へ通じる。詩人ダビデは、「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる」(詩篇34:18)と言っている。
 真の告白はつねに、はっきり自分の犯した罪そのものを言い表わすのである。神にだけ告白すべきものもあるだろう。または、だれか害をこうむった人々に告白しなければならないものもあるだろう。あるいは公のものであれば、公に告白しなければならないこともあるだろう。いすれにせよ、告白はすべてはっきりとその要点にふれていて、犯した罪そのものを認めねばならない。(キリストヘの道46〜 48)
 神のみ言葉には、悔い改めとけんそんの実例があげられているが、そこには罪の言いわけをしたり、自己を正しとするようなことの少しもない、真心からの告白の精神が見られる。パウロは、自分を弁護することなく、自分の罪をその恐ろしいままに描き、罪をいくらかでも軽くしようなどとは考えなかつた。…。
 真に悔い改め、けんそんになった心は神の愛のいくぶんかを悟り、カルバリーの十字架の犠牲を心から感謝してやまない。そして子供がやさしい父親に告白するように、ほんとうに悔い改めた者は神の前に自分の罪をみなもちきたるのである。(キリストヘの道51、52)


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