「重荷を負う偉大なお方」

  「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。 神はあなたがたをかえりみていてくださるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」(ペテロ第-5:6、7)

 〔一人びとりが〕それを知っていようといまいと全ての者が疲れ、重荷を負っている。すべての者がキリストだけが取り去ることのできる重荷に圧迫されている。わたしたちが負っている一番重い重荷は、罪の重荷である。もしわたしたちがこの重荷を負うがままにほおって置かれるなら、それがわたしたちを押しつぶしてしまう。 しかし罪のないお方がわたしたちの代わりになってくださった。「主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた」(イザヤ53:6)。このお方はわたしたちの罪深さという重荷を負ってくださった。わたしたちの疲れた肩から重い荷を取り去り、休息をお与えになる。主はわたしたちの心配と悲しみという重荷も負ってくださる。このお方はわたしたちの思いわずらいを一切ご自分にゆだねるようにと招いてくださる。なぜなら、わたしたちを懐に抱いて持ち運んでくださるからである。わたしたちが神と顔と顔をあわせて立ち、自分たちが見られているように見、知られているように知るときに初めて、救い主がわたしたちのためにどれほど多くの重荷を負われたか、またこのお方に預けさえすれば、どれほど多くの重荷を喜んで負ってくださったかを知るのである。
 わたしたち人類の長兄は永遠のみ座のそばにおられ、救い主としてご自分に顔を向けているすべての魂に目を留めておられる。このお方は経験によって人類の弱さが何であり、わたしたちの必要が何であり、誘惑の力がどこにあるかをご存知である。なぜなら「すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われた」からである(ヘブル4:15)。「わたしのところに来なさい」というのがこのお方の招きである。あなたは自分が弱く、まったく無力であることを知れば知るほど、このお方にあって強くなる。「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである」(ヘブル2:17,18)。
 人の愛は変わることがあるが、キリストの愛は変わることを知らない。わたしたちが助けを求めてこのお方に叫ぶとき、そのみ手はわたしたちにむかって伸ばされる。(サインズ・オブ・ザ・タイムズ1902年4月16日)

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