「どのような境遇でも」

 「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」(ピリピ4:11〜 13)

 あらゆる面で悩まされ、困らされ、迫害を受けたパウロが彼の試練を軽い患難と呼ぶことができるのであれば、今日のクリスチャンはつぶやくことが何かあるであろうか。パウロの多くの患難に比べてわたしたちの試練はどれほど取るに足りないものであろうか!打ち勝つものを待っている永遠の重い栄光に比べると価値はない。試練は品性を完成するために定められた神の職人である。クリスチャンの損失と苦しみがどれほど大きくても、摂理の道が暗く不可解に見えても、すべては自分の益のためにはたらいていることを知って、彼は主にあって喜ぶべきである。(レビュー・アンド・ヘラルド1902年5月6日)
 あなたの境遇がどうであつても、摂理の道が暗く神秘的であっても、その道が深い水の中を通っていても、試練や死別が幾度も悩ましても、「万事は神を愛する者のために善となるよう共に働く」という保証がある(ローマ8:28)。「わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである」(第二テモテl:12)(セレクテッド・メッセージ2巻261)
 ささいな義務を行うにあたって忠実でないかぎり、だれも大きく重要な働きに適したものとはならない。成就すべき務めにふさわしい努力とエネルギーを発揮するために品性が形作られ、魂が訓練されるのは、漸進的である。わたしたちが境遇に左右される者であればクリスチャン品性を完成するのに必ず失敗する。あなたは境遇に打ち勝ち、境遇があなたを征服するのを許してはならない。あなたはキリストの十字架に力を見出すことができる。あなたは今だんだんと成長し、困難を克服し、習慣の力を打ち破ることができる。あなたはイエスの命を与える力によって鼓舞(こぶ)される必要がある。(教会への証3巻46、47)

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