「試練という賜物」

 「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」(第二コリント4:17)


 ポートアイランドに滞在中……・・わたしを一生虚弱にした事故に出会ったその場所を含む、自分の幼年時代に関連した特別に関心のある場所を、わたしはいくつか訪問した。しばらくの間負うのが非常につらく困難に思えたこの災難は、姿を変えた祝福であることが分かつた。地上の喜びを妨げた残酷な一撃はわたしの目を天へ向ける手段であった。イエスの内に慰めを求めるようにとわたしを導いた、幼年時代を暗くした悲しみがなかったなら、わたしはこのお方を決して知ることはできなかったはずである。
 鳥かごが明るいところにあると、小鳥は主人が教えたいと思う歌を決して歌うことはないということを読んだことがある。小鳥は歌を聞き、その断片を学びさえするが、別々の完全なメロデイをさえずることは決してできない。しかし主人が鳥かごを覆い、暗くすると、小鳥は歌うべきその一つの歌を聴く。その歌を学び、完全なメロディーを発するまで、その歌を歌おうと何度も何度も試みる。それから鳥かごの覆いを取ると、小鳥は明るい中でその後ずっとその歌を歌うことができる。神はこのようにご自分の被造物を取り扱われる。このお方にはわたしたちにお教えになりたい歌があり、わたしたちが悲しみの深い影のただ中でそれを学ぶとき、以後たえずそれを歌うことができる。(レビュー・アンド・ヘラルド1884年11月25日)
 わたしたちは将来自分のすべての試練が自分の救いにどれほど密接に係っていたかを、またどのようにこのしばらくの軽い患難が働いて、「永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させる」ようになったかを知る(第二コリント4:17)。(彼を掲げよ250)
 試練は……わたしたちが神の子である証拠である。パウロは大きな患難を通ったが、天におられる御父が死んでおられるかのように望みを失うことはなかった。彼は苦難の中で喜んでいたが、それはキリストの苦しみにあずかることによってこのお方のかたちに変えられることを望んでいたからである。この信仰の英雄に彼自身のことを語らせなさい。「わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじ」る(第二コリント12:10)。

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