「改革をなす譴責」

  「わたしの戒めに心をとめよ、見よ、わたしは自分の思いを、あなたがたに告げ、わたしの言葉を、あなたがたに知らせる。」(箴言1:23)

 人々の救いを果たすために神はさまざまなものをお用いになる。み言葉によって、牧師によって彼らに語り、聖霊によって警告、譴責、教えのメッセージをお送りになる。これらの手段は、民の理解力を啓発するため、また彼らに自分たちの義務と罪、および彼らが受けることのできる視福を示すため、さらにキリストの許へ行き、自分が必要とする恵みをこのお方のうちに見出すことができるよう彼らに霊的欠乏を自覚させるためである。しかし多くの者が神の方法の代わりに自分自身の方法に従うことを選ぶ。自己が十字架につけられ信仰によってキリストが心のうちに住んでくださるまでは、彼らは神と和解しておらず、また和解できないのである。(教会への証5巻46)
 神のみことばや、神の使命者たちを通して与えられる警告と譴責と懇願の一つ一つは、心の戸をたたく音である。それは中にはいることを求めておられるイエスのみ声である。ノックを無視するたびに、戸を開く気持がうすれる。聖霊の感動は、今日、無視されると、明日は今日ほど強くなくなる。心はだんだん感じなくなり、人生の短かさについて、また未来の大いなる永遠について、危険な無感覚状態に陥る。さばきの時にわれわれが罪に定められるとすれば、それは、われわれが誤謬の中にいた結果ではなくて、何が真理であるかを学ぶ機会を天から与えられていたにもかかわらず、これを無視した結果である。(各時代の希望中巻291)
 人の誤りを正し、改めさせようとする場合、ことばに気をつけなければならない。 ことばは命に至る命の香りともなれば、死に至る死の香りともなる。人を譴責したり、勧告したりするときに、傷ついた魂をいやすのにはふさわしくない鋭いきびしいことばを出す人が多い。このような思慮に欠けた発言によって、心を傷つけ、誤った人を反抗的にさせることがよくある。真理の原則をのべ伝えるものは、すべて、天からの愛の油を受ける必要がある。どんな場合であつても、譴責のことばは、愛をもって語らなければならない。そうするならば、わたしたちのことばは、人を怒らせたりしないで、改革をうながすことができる。キリストは、聖霊によってわたしたちに、活力と能力を供給してくださる。これがキリストのお働きなのである。(キリストの実物教訓312)


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