「御霊は降伏を要求する」

 「神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。こういうわけであるから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜わる神を拒むのである。」(第一テサロニケ4:7、3)

 パウロの聖化は自己との絶え間ない戦いであつた。「わたしは日々死んでいるのである」と彼は言つた(第一コリント15:31)。彼の意志と望みは日々義務と神の御旨に衝突した。しかし自分の傾向に従う代わりに、彼は自分の性質にとって不愉快であり十字架につけられるようなものであっても神の御旨を行った。もしわたしたちがキリスト・イエスにあるわたしたちの高い召しの目標に押し進みたいのであれば、わたしたちは自己がまったく空になり、恵みの黄金の油に満たされていることを示さなければならない。神はみ摂理を通してわたしたちを取り扱っておられる。永遠の昔からこのお方はわたしたちをご自分の忠実な子として選んでおられる。このお方はわたしたちのために御子を死に渡されたが、それはわたしたちが真理への服従を通して聖化されるためであり、自己はことごとくどんなに小さなものも清められるためであった。今このお方はわたしたちに個人的な働き、個人的な自己降伏をお命じになる。わたしたちは聖霊に支配されるべきである。神を信じると公言するわたしたちが、そのみかたちに一致するときのみこのお方は名誉を受けることがおできになる。わたしたちは世に聖潔のうるわしさを示すべきであり、キリストのような品性を完成させないかぎり、わたしたちが神の都の間をくぐることは決してない。もしわたしたちが神を信頼して聖化のために努力するなら、それを受ける。そのとき、わたしたちはキリストのための証人として、神の恵みがわたしたちの内に働いてきたことを知らせることができる。(ユース・インストラクター1899年8月24日)
 キリストの宗教を持つということは、あなたが無条件に自分のすべてを神に捧げ、聖霊の導きに同意してきたことを意味する。聖霊という賜物を通して道徳力があなたに与えられる。そして神の奉仕のために過去に委ねられたタラントがあなたにあるだけでなく、その能力が著しく増し加えられる。わたしたちの力をすべて神に捧げると、人生の問題は大いに単純になる。それは数知れぬ生来の心の感情との葛藤を弱め、短くする。宗教は老若の魂をキリストに結びつける黄金の紐である。宗教を通して、喜んで服従する者は暗く入り組んだ道のりを神の都まで安全に導かれるのである。(同上1893年2月2日)

http://www.sda1888.com/
聖書のお話ブログ BIBLE STORY BLOG
http://dailydevotion.jugem.jp/?eid=126


 ブログ村ランキングに参加しております。
もしよろしかったら、クリックお願いいたします。

 ↓↓↓  

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村