「新しい命への復活」

  「すなわち、私達は、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、私達もまた、新しい命に生きるためである。」(ローマ6:4)

 改心に伴う諸段階を踏んでいる悔い改めた信者は、バプテスマにおいてキリストの死と葬りと復活を記念する。彼はキリストの死と葬りを型どって水の中に入り、主の復活を型どって水から起き上がる。すなわち罪という古い命を拾い上げるのではなく、キリスト・イエスにある新しい命に生きるために、水から起き上がる。(5BCll13)
 わたしが「命を捨てるのは、それを再び得るためである」(ヨハネ10:17)と言われた主は、墓からご自身のうちにあった命へと進み出て来られた。人性は死んだが神性は死んだのではなかった。ご自身の神性において、キリストは死の東縛を破る力を持っておられた。主は、よみがえらせようとする者に与える生命が、ご自分の内にある事を宣言された。すべての被造物は神の意志と力によって生きる。彼らは神のみ子の命の受取人である。能力と才能がどうであれ、又彼らの可能性がどれほど大きくても、彼らは、すべての命の源から命を補充される。主は命の源であり、泉である。ただひとり不死であられ、光と命の中に住まわれる方は「わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある」(ヨハネ10:18)と言っておられる。…キリストは不死を与える権威を授けられている。主は、人性をとっていた時捨てた命を再び取り上げ、そして、人間に与えられたのである。…
 キリストは人間が霊と命において主と一つになることができるように人間と一つになられた。神のみ言に従順であることによるこの一致によって、主の命は彼らの命となる。主は心から悔い改めた者に「わたしはよみがえりであり、命である」(ヨハネ11:25)と言われる。死はキリストによって眠りすなわち静かで、暗く、眠るもの、とみなされた。主はあたかもそれは、一瞬の間であるかのように語られる。「生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」(ヨハネ11:26)と言われる。…「その人はいつまでも死を見ることがない」(ヨハネ8:51)。そして、信じる者に対して、死は小さなことでしかない。彼にとって、死ぬことは、眠ることでしかない。「神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと―緒に導き出して下さるであろう」(第一テサロニケ4:14)。(1SM801〜303)

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