「天における栄光の再会」

 「門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。…これこそ栄光の王である。」(詩篇24:7-10)

 キリストは、人性を装った神として地上に来られた。主は聖徒達の王として天にのぼられた。キリストの昇天は、主の高貴なご品性にふさわしかった。主は、戦いの勇者として、征服者として、捕えた捕虜達を従えた勇者としてのぼられた。主は賛美の歓声と、歓呼、そして、天上の歌をうけて、天の軍勢がつき従った。・‥全天は、主を歓迎することで一体となった。(6BC1053)
 キリストの昇天において、弟子達によって明らかにされた最も貴重な事実は、彼らの天の教師が触れることのできる姿で、彼らのところから天に行かれたということであった。…弟子達が、自分達の主について持っていた最後の記憶は、自分達に同情して下さる友であり、栄光に輝く救い主であった。…見える天の護衛者の輝きとそして主を喜んで迎える神の栄光の門が聞かれたことは、人間の目には、見えないものではなかった。
 キリストの天に帰られる道が、その満ち満ちた、表現のできない栄光のうちに、弟子達に現わされたならば、彼らはその光景に耐えることはできなかったであろう。もし彼らが、無数の天使を見、とこしえの戸があげられた時、天の戦いの勝利のかちどきを聞いたなら、試練の世における彼ら白身の生活と、この栄光との間の対照があまりに大きいので彼らは自分達の地上の生活の重荷を、再び取り上げることはほとんど不可能になったであろう。
 彼らは自分の中にキリストを写し取らなければならなかったので、彼らの感覚が、天の栄光に夢中になってしまって、地上におけるキリストのご品性を見失ってしまうことがあってはならなかったのである。彼らは自分の心にはっきりと、主のご生涯の麗しさと気品を、また主のあらゆる特性の完全な調和を、そして主のご性質における、神性と人性の神秘的な結合をはっきりと覚えているべきであった。弟子遠の救い主との地上における交わりは、厳粛で静寂で、荘厳な方法でそれがなされたように終わるべきであって、そのほうが良かったのである。主が見える形でなさった地上からの昇天は、主のご生活の柔和と、静かさに調和したものであった。(6BC1053,1054)

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