「すべての危急に対する備え」

 「わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、」(ヘブル2:3)


 救いの天の創始者は、どんな不完全さをも、ご計画の中に残されなかった。救いのあらゆる段階が完全である。全世界の罪は、イエスの上に置かれた。そして神性は、全世界がキリストの身代わりを信じることによって許されるために、イエスにある人性の苦しみにその最高の価値を与えられた。最も罪深い者も、恐れを持つことはない。神は許されるであろう。なぜなら天の犠牲の効果的な働きのゆえに律法の刑罰は許されるからである。キリストを通して、罪人は、神に対する忠誠に帰ることができる。
 救いの計画は、その単純さと、その完全さにおいてなんとすばらしいものであろう。それは罪人に対して、完令な許しを提供するばかりでなく、また、罪人の回復のために提供されている。それによって、人は神の子として受け入れられるのである。従順を通して、人は愛と平安と喜びの所有者になる。彼の信仰は、その弱さのまま、彼を、天の力の源であられるキリストに結びつける。そして、キリストの功績を通して、神の是認を見い出すことができる。なぜならキリストは、律法の要求を満足させ、ご自身の義を、悔い改め信じる魂に着せられる。…なんという愛、何という素晴らしい愛が、神のみ子によって示されたことか。…キリストは、罪人を最低の堕落した状態から取り上げ、清め、洗練し高貴にされる。主があられるように、イエスを見つめることによって、罪人は改変され、気品の最も高い頂に高められ、ご自分のみ座におられるキリストと共なる席にまで高められるのである。…
 贖罪の計画は、あらゆる危急に対してそして魂のあらゆる欠乏に対して提供されている。もしそれがなんらかの点において不完全であったならば、罪人は、その条件の軽視に対して、弁解するなんらかの口実を見い出すかも知れない。しかし、無限であられる神は、人間のあらゆる必要を知っておられ、豊かな備えによってあらゆる必要を満たしてくださったのである。…そういうわけで、罪人は、最後のさばきの大いなる日に、なぜ、こんなに徹底的で真剣な、自分に提供された救いに関心を払うことを拒んだか、それに対してなんの申し開きができるであろうか。(RH1891.3.10)

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「天を喜ぶ方法」

   「また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。」(第二ペテロ1:4)

 私達に豊かな約束を与えようとする神のご計画は、使徒ペテロによって述べられている。それは、私達が、「神の性質にあずかる者となるためである。」私達は、地上的、世的な好みを、神のそして、天の好みに変えなければならない。天国は、もし私達の好みや、私達の瞑想や、私達の性質が、キリストのようでなかったならば、あなたにとっても、私にとっても天国とはならない。キリストが、ご自分の子らのために、用意しに行かれた純潔な天の住居は、贖われた者だけが、自分達の心の中に働く恵みによる内部の働きによってのみ、その住居にふさわしい者となるのである。それによってその住居の価値を認めることができるものなのである。
 私はあなたに、天の祝福、勝利者のために置かれた王冠、キリストの義である白い麻布、勝利のしゅろの枝、黄金のたて琴を描写したいと思う。しかし、こういったものだけで、天国は、私達一人一にとって、祝福の場所になるのではない。これらのものがなくでも、もし私達が清い、そして聖なる品性を持っているならば、私達は幸福である。なぜならば、私達はイエスとその方の愛を持っているからである。純潔で、罪がなくキリストのご品性と一つになっているならば、天は喜ばしい所である。私達の能力は強められ、すべては調和を保つ。完全な祝福はキリストが至上権を持って治められる心の中にのみ宿ることができる。
 キリストは、私達の世界に死ぬために来られた。正しい方が不義なる者のために…それは、主が男女を高め、高貴にされて、主の神聖なる御姿を彼らの上に刻印しようとされたからである。このために、主の御霊は、さらに進んだ活力と霊的生活の完全さが存在するように、私達のために、共に働かれるのである。(letter4,1895)
 私達は一つの罪深い傾向を持ち続ける必要はない。…私達が神の性質にあずかる時、悪に対する先天的、後天的傾向は品性から切り取られ、そして私達は、善に対する生きた力とされるのである。天の教師について常に学び、日々主の性質にあずかる時、私達は、サタンの誘惑に勝利するため神と協力するのである。神が働き、人間が働く。そして人は、キリストが神と一つであるように、キリストと一つになることができる。その時、私達は天国においてキリストと共に座る。心は、イエスにある平安と、保証で安らぐ。(7BC 943)

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「主のご品性に従って形作られること」

  「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(第二コリント3:18)

 もしある人が、人間の不完全さから目を離してイエスを見つめるならば、天の変革が彼の品性の中におこる。彼は、神の栄光を反映する鏡を見るように、自分の目をキリストにじっと向ける。そして、見つめることによって、彼は、霊なる主の働きによって、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていくのである。…
 あなたの目を他の人々の不完全さから離して、キリストをしっかり見つめなさい。悔い改めた心で、主のご生涯とご品性を学びなさい。あなたは、もっと啓発されるだけでなく、あなたの前にある豊かな食卓を見、御言葉である神のみ子の肉と血を食べ、飲むことができるようにますます成長する必要がある。命のパンを食べながら、命の言葉の良さを味わうことによって、あなたは、きたるべき世界の力を見ることができるようになり、キリスト・イエスにあって新しく造られるのである。もし、あなたが主の賜物を受けるならば、あなたは聖なる者に新しくされ、主の恵みは、あなたのうちに神の栄光にまで至る実を入れて下さるのである。
 聖霊はキリストを人の心に示し、信仰は主をしっかりと捕える。もしあなたがキリストをあなたの個人的救い主として受け入れるならば、あなたは経験によって、あなたのためにカルバリーの十字架上でなされた偉大なる犠牲の価値を知るであろう。心に働いているキリストの霊は主のみ姿に心を形作る。なぜならキリストは、聖霊がそれによって働かれる原型だからである。神はご自分のみ言葉の奉仕によって、またご自分の摂理によって、魂にキリストの御姿を刻印してくださるのである。
 キリストを所有することがあなたの最初の仕事である。そして、キリストを、この方に来る者をだれでも完全に救うことのできる方として示すことが、あなたの次の仕事である。心に堅く決心して、主に仕えるということは、聖なる事柄をよく考えることによって、また主の聖なる言葉の中に現された命の真理に、心が満たされることによって、主の名をあがめ、栄光を帰することである。…
 善意、柔和、親切、忍耐、そして愛は、キリストの品性の特性である。もしあなたがキリストの精神を持っているなら、あなたの品性は主の品性に従って形造られるのである。(letter74,1897)

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「いいかげんに扱うべきではない人生」

  「だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。」(ローマ14:12)

 神の祝福を受けた者として、理性の力、知性、判断力を持っている私達すべては、神に対する私達の責任を認めるべきである。神が私達に与えて下さった人生に対して、神聖な責任があり、その一瞬といえどもいいかげんに扱うべきではない。なぜなら、私達はさばきの記録の中において、再びそれに相対さなければならないのである。私達の生活が天の書には写真家の感光板の上に写し出された写真のように、正確に記録されているのである。私達が自分がしたことに対して責任を負うばかりでなく、私達がしないで放っておいたことに対しても責任を負わなければならないのである。私達は、自分達の成長しなかった品性に対して、また私達が利用しなかった機会に対して責任を負うのである。…
 キリストの学校で、あなたが貴重な人生教訓を学ぶのを妨げるものは、利己的な安楽を愛する心、快楽を愛する心、あなたのうぬぼれ、そして自分を高める心である。自分を形作るのを境遇や、環境によるものとしないで、天の型に従って、自分の品性を形造る上よりの境遇に生きることが、クリスチャンの義務である。たとえ、どんなところに置かれていようとも、忠実でなければならない。人は忠実に、そして神から与えられた機会をうまく活用して、自分の能力のすべてをあげて、自分の義務を果たすべきである。…
 もしあなたが、キリストの中に住み、キリストの学校で学んでいるなら、あなたは、無作法であったり、不正直や、不忠実であったりはしない。キリストの十字架は、あらゆる清くない情欲や、行為の根を断ち切る。あなたの仕事の性質がなんであれ、あなたの働きにキリストの原則を持ち込み、あなたの手に与えられた仕事に、自分白身を投ずるのである。あなたの関心は、あなたの雇い主の関心と、一つになるであろう。あなたが、自分の時間に対しで支払いを受けるならば、働きのその時間は、あなた白身のものではなく、そのためにあなたに支払う人に属するものであるということを知るであろう。もしあなたが、不注意で、そして、放縦で、材料を浪費し、時間をむだ使いし、労することを惜しみ、勤勉でなければ、あなたは、不忠実な僕として、天の書に記録されるのである。…忠実、節約、注意、徹底性があなたの仕事のすべてを特徴づけるべきである。…「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である」(ルカ16:10)。(RH1891.9.22)
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「まくことと刈ること」

 「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。」ガラテヤ6:7,8

 「肉にまくというのはどういうことであろうか。それは、私達白身の生まれながらの心の欲望と、性向に従うことである。私達の告白がどのようなものであろうとも、もし神の代わりに白已に仕えているなら、私達は肉にまいているのである。クリスチャンの生活は、自己犠牲と、十字架を負う生活である。私達は、イエス・キリストのよい兵卒として、困難に耐えるべきである。…私達は、自分に都合のよいものはなんであろうかと、問うことはできない。むしろ、私達に命じられていることは何であるべきかと、問うべきである。だれも、兵卒の生活は自己を喜ばす、自己満足の生活であると考える人はいない。私達は、今日、戦場にいて、そこで二つの大きな勢力が支配を争っているのである…
 あなたは、毎日の生活で何をまいているであろうか。あなたは、自分の肉にまいているだろうか。なたは自分の楽しみと、自分の利益だけを考えているのだろうか。誇りと、虚栄と、野心のためにまいているのだろうか・‥私は、あなたに霊のためにまくようにお願いする。あなたが誘惑に抵抗するたびに、次の試練のために、霊にまく力をあなたに与えるのである。(RH1891,5.5)
 もしあなたが、キリストに対する従順を示しながら、信仰をまいているならば、将来の従順のために、信仰と力とを刈り取る。もしあなたが、他の人に対して祝福となろうと思うならば、神はあなたを祝福される。・‥私達が、他の人々に喜びを与えるならば、それは再び私達に返って来る。なぜならば、私達はまくように刈るからである。…
 信心深い生活を送りたいと願うすべての者が、私達の聖なる贖い主イエスを通して、恵みと力を持つことができるように豊かな備えがなされている。クリスチャンの生活は、たとえ十字架を掲げ、重荷を背負ったものではあっても、重荷と心労の生活であってはならない。なぜならば、神の僕達は、自分達の力の源から平和と力を引き出し、そうすることによって彼らは、幸福と平和に満ちた生活を見い出すからである。・‥自分の生活のすべてが神にささげられていなければならない。なぜなら、私達の尊い救い主は、決して二心を共有なさらないからである。私達の性向や欲望は神の御霊の支配の下になければならない。その時私達は、信仰の良き戦いを戦うために強められるのである。私達は毎日、隊長の命令は何であるかと問うべきである。(同上)

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「大望の最高の目標」

 「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである。」(マタイ6:27)

 私達は、大望を持った人に、クリスチャンになりたいならば、大望を持つことを止めなければならないと告げることはできない。神は、大望の最高の目標、すなわち、しみのない白い衣、宝石で飾られた王冠、杖、栄光の座、そして、エホバのみ座にあるのと同じように持続する栄誉を彼の前に置かれる。人をこの世の中で成功させ、名誉を得させるのに役立つ品性のあらゆる要素、すなわち、なにか更に偉大な善に対しての押さえ切れない願い、不屈の意志、熱心な努力、疲れることのない忍耐力などは押しつぶされるべきではない。これらは、残されるべきものであり、神の恵みによって、他の水路に回されるように、心に受けるべきものである。これらの価値のある品性の特徴は、天が地よりも高くあるように、世的追求よりも、はるかに高く、高貴な目的に活用され得るものである。
 イエスは、白い衣とどの君主もこれまで額につけたことがないほど豊かな栄光の王冠、また、王子達の栄誉にまさる称号を与えて下さる。キリストヘの奉仕にささげられた人生に対する報いは、人間の想像が及ぶいかなるものよりもすぐれている。キリストは人に、熱心さや、すぐれたもの、高められたものに対する望みを捨てるようにと呼びかけられはしない。むしろ主は、彼らが滅ぶべき宝や、うつろいやすい名誉を求めるのでなく、朽ちないものを求めることを望まれる…
 神は、永遠の命のために努力している者が高く志すことを、非常にお喜びになる。生まれながらの品性の傾向は、世的に賢く、策略的で、利己的な野心を持つ者になってしまう強い誘惑、また、最高の価値を持つ救いをおろそかにして、富を集めることに熱中する強い誘惑を持っている。しかし、どの誘惑も抵抗するならば、自己を押さえることによって得られる貴重な勝利を得られるのである。それは、力をイエスの奉仕に向け、信仰と、希望、また自制と、忍耐を増す。…私達は、星で飾られた重い王冠を求めて、イエスの力の中に目標を立てることにしよう。「賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう。」(ダニエル12:3)(RH1881,10,25)

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「人生の義務を果たすこと」

  「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。」(ローマ14:7)
 「神に対する、そしてわたしの友に対するわたしの人生は、どんなものであろうか」と自分に問いなさい。だれ一人、自分のために生きているという人はいない。いかなる人生も中立の立場で、生きているという人はいない。永遠の人生に関する認識は、すべての義の敵によって感化されているので、その重大性に気づいていない。しかし…私達は、自分の責任を逃れて、将来の不死の生活に関係なく生き、さらに、神に対して、また友人に対して義務を行うことはできない。一人一人は人類という大きな織物の一部である。そして一人一人は遠くまで及ぶ影響力を持っているのである。私達は、私達白身の力だけに頼って義務を果たすことはできない。私達は、自分達の責任を果たすにあたって神の助けを得なければならない。そうすれば私達の感化は…キリストと共に増大していく。
 時間や、能力、また感化という私達のすべてのタラントは、神から与えられた。だから、自発的な奉仕のうちに神に返されるべきである。神が与えられた人生の偉大なる目的は、地上の利益を確保することではなく、天の王国における永遠の特権を確保することである。主は、キリストの尊い血によって、私達に属するすべてのものを買い取られた。だから、主から、主のものを取ろうとするものは、最も悪質な盗賊的行為である。(YI1894,9,13)
 私達の人生は、私達自身のものではない。かつて、私達のものであったこともなく、またこれからもそうなり得ることはないのである。私達にとって重要な質問は、私達の人生は、主の生涯に織り込まれているかということである。…私達は、魂を取り巻く雰囲気に対してさばきを受けることになるであろう。なぜなら、それは命に関わる事柄であり、他の魂に善か悪かの感化を与えるものだからである…
 もしあなたがたが、神につながり、神を恐れ、神を愛し、神に従い、クリスチャンの人生がそうであるべき生きた模範を、世に与えているならば、あなたは神に対する、そしてあなたの友に対するあなたの義務を果しているのである。あなたは、あなたの人生において、全心で、神を愛し、あなた自身のようにあなたの隣人を愛するということが、どういうものであるかということを示すべきである。知恵と愛の神に結ばれているならば、あなたは、この世のために生きているのではなく、永遠のもののために生きているのだという事実を世に示すことになるであろう。(YI1894,6.21)

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